江刺 えさし

江刺和多理家 200327

 明治元年の支配帳に江刺和多理家がある。『参考諸家系図』は江刺長作隆直の二男江刺助之進隆次を祖と伝える。「参考諸家系図」によれば、隆次は寛永中に兄勘解由春隆から高二百石を分知されたと伝えている。しかし、寛永二十一年の奥附がある「支配帳」及び正保三年とする「支配帳」には江刺氏は見えない。写本であるから転写の際の脱落と見るべきだろうか。寛永二十一年以降を伝える家老席日誌「雑書」には慶安三年二月に本町出口門番として初見、慶安五年に死去した。岩手県史採録の慶安年間支配帳に「二百石・江刺長左衛門」がある。江刺長左衛門は参考諸家系図の本系図にないが、一本系図によれば隆次の子に四郎五郎(のち長左衛門)隆興が見える。傍証されている系図の方が正しいと看做して、隆興の跡を五郎右衛門恒行が相続、この時高百石を食邑、のち延宝七年に切添新田八石を加増され、高百八石となった。その跡を元禄四年に嫡子専右衛門恒次が相続。毛馬内通代官を勤めて正徳五年に死去した。その跡を嫡子助之進恒邑が相続して享保三年に死去した。恒邑は幼少での相続、死去であったため嗣子がなく、恒邑の従弟で七戸長右衛門慶郷の三男助之進恒包(のち市郎兵衛)が末期養子となり相続、目付を勤め寛保二年死去した。その跡を本家江刺舎人恒篤の甥で、浪人江刺意庵隆易の子専太郎(のち五郎右衛門、専右衛門)が相続、岩崎番所番人、使番を勤め宝暦十二年に死去した。その跡を嫡子千太郎(のち専右衛門、平右衛門)が相続した。雫石筏奉行、座敷奉行を勤め文化元年死去した。その跡を嫡子専右衛門が相続、文政十年に死去した。その跡を辺恒安が相続、天保十四年郷村吟味の時十七石六斗一合の出高を加増、更に弘化三年金方二十石を加増されて高百四十七石六斗一升八合(天保十二年以降、二石余加増の時期不明)となった。小姓、側役、用人、花巻城代、側用人などを歴任。明治十一年死去した。墓碑には江刺笛遊の墓とある。その跡を和多理恒久(のち茂理人、専司)が相続。菊廼屋と号し、初め武家故実を修め、国学を漆戸茂喬、島川鎌満に請け、江戸に出て平田鉄胤、伊藤頴則に学び、古典を小中村清矩に学んだ。目付、作人館教授、盛岡藩大属となり、その後神祇省、教部省に出仕し、のち東京で私塾を開き国学を教えた。岩手の嵐、梅の下風、森の下風など十七・八種あり、奥々風土記は南部叢書に収められている。明治二年に隠居。同三十三年に死去した。その跡を余一郎清臣が相続した。同十一年の士族明細帳によれば大清水小路八番屋敷に住居していた。その跡を幸彦が相続、当主の十郎氏は東京都に在住する。歴代の墓は初め市内大荘厳寺にあったが、明治初年廃寺となり、北山の報恩寺に移されてある。

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