江刺家 えさしか

江刺家健蔵家 200327

 明治元年の支配帳に江刺家健蔵家がある。『参考諸家系図』によれば小軽米一寄斎久俊を祖と伝える。久俊は先祖より九戸政実家の族臣として九戸郡小軽米村(軽米町)に住居、在名により氏とした。天正十九年九戸政実の一揆に際して、三戸の南部信直に属し、戦後旧領によって小軽米村一円を食邑した。このことについて、小軽米村一円を領したのは北尾張守信愛の三男北九兵衛直継とする説(『参考諸家系図』)がある。両説とも傍証記録は管見になく、何れが史実であるかは定かでない。その跡を嫡子左衛門佐直連が相続、三千石を領地。野辺地城代として津軽の押に任じた。その跡を嫡子瀬兵衛直久が相続。この時、利直の命によって江刺家氏に改めたという。慶長五年使番として内堀四郎兵衛頼式と倶に命を奉じて美濃(岐阜県)関ヶ原に赴き、将軍徳川秀忠に使いした。帰国後病により乱心。出奔し禄を収められ、のち福岡(二戸市)で死去したという。ただし、出奔の時期は、直久の弟彦四郎久幸は慶長十九年大坂冬の陣の時、兄の軍代として半軍役で従軍したとあるから、慶長十九年を下ると想定するのが至当であろう。直久出奔の後、その子庄作(のち茂兵衛)高久が寛永十年更に召出され、稗貫郡太田村(花巻市)に百石を食邑、別に山林を宛行がわれた。その跡を嫡子門太夫久周が相続、次いでその嫡子藤太夫幸則が相続、幸則は元禄十三年に死去した。その跡を簗田平右衛門勝詮の次男平助久澄が養嗣子となり相続、宝永元年江戸で死去した。その跡を楢山五左衛門隆常の二男門太夫久隆が養嗣子となり相続、同三年死去。その跡を嫡子戌千代(のち瀬兵衛)久則が相続した。実は父久隆が死去した時に久則は未だ胎児であったといい、男子出生の時には嗣子として相続、女子出生の時には婿養子が相続との藩命がある中で出生相続したと伝える。日詰通代官、沼宮内通代官などを勤め、延享四年死去した。その跡を嫡子門太夫(のち瀬兵衛、志津馬)が相続した。天明五年献金を以て五十石を加増され、高百五十石となった。雫石橋場番所番人、江戸定給仕、座敷奉行、使番、徒頭の後、目付となり杉植立用掛、倹約用掛を勤めた。天明八年死去した。その跡を嫡子周蔵(のち庄作)が相続した。寛政八年足高収例により足高五十石を返上して高百石となった。沢内通代官、毛馬内通代官を勤め、文化五年死去した。次いで嫡子貞司がその相続願を受理される前に死去し、重死の大法により家名は断絶した。その後文化十一年貞司の弟末治が家名立を以て召出され、五人扶持(高三十石)を食禄した。小姓を勤め天保五年死去した。その跡を嫡子長五郎が相続。その後文久二年に養嗣子健蔵豊久が相続して大奥用聞を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、豊久は当時下小路五十六番屋敷に住居していた。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の祇陀寺にある。

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