江釣子 えつりこ

江釣子市兵衛家

 明治元年の支配帳に江釣子市兵衛家がある。『参考諸家系図』によれば江釣子為助の孫江釣子幸助を祖と伝える。幸助は花巻給人伊藤百々助に養育されたが、のち花巻に日置流弓術の道場を開き、多数の門弟を抱えた。文政九年その指導宜敷を以て花巻給人に召出され三人扶持(高十八石)を食禄した。同十二年二月、願え出て江釣子を江摺子と改め、同月隠居して翌年正月死去した。御境番を勤めた。その跡を又助が相続して別段廻りを勤め、天保五年に隠居。翌六年三月死去した。その跡を久米太郎豊貫(のち市兵衛、弘)が相続、同十一年高総祖父為助が縉雲院(利雄長子信濃守利謹、利済の実父)の身辺にあった勤功を以て盛岡支配に取り立てられ、一駄を加増、一駄三人扶持(高二十石)となった。その後岩崎番所番人、越中畑番所番人、鹿角熊沢番所番人、雇徒目付などを勤めた。花巻市史によれば、為助も武芸者であったという。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米十石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳によれば、江摺子豊貫で見え、新庄村(盛岡市)百二十六番屋敷に住居していた。

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