及川 おいかわ

及川繁人家 200510

 明治元年の支配帳に及川繁人家がある。『参考諸家系図』は源三位頼政の末葉高屋周防守忠明を祖と伝える。忠明は本名を及川氏と称し、東山沖田(一関市大東町)にあって葛西氏に仕えた。天正十八年、その子近江守常利は、豊臣秀吉による奥州仕置に、主家と命運を共にし浪人となった。常利の跡は新右衛門━佐渡常政と浪人で死去。その子藤左衛門説定は親の代から黒沢尻(北上市)に住居したが、農家となって貞享二年死去したという。岩手県史は、頼政の末葉とする傳を真っ向から否定するが、東山及川氏の末裔とする仙台藩士及川家があり、同家の傳によれば、先祖伊豆冠者成綱が但馬(兵庫県)及川荘の在名により氏とし、その後裔美濃守頼家の時に東山猿沢村(一関市大東町)に来居したと伝える。同族に沖田住居の及川氏があり、東山及川氏から江刺の高屋氏、小田代氏、下川原氏等が派生した。その後、説定の跡は、佐藤左衛門常房━左吉説房と農業を以て相続した。その子左六常義の時(享保十八年)に、母方の叔父小田代又右衛門の願によって黒沢尻通に与力新田五十石を受けて、及川氏を称し花巻与力となった。のち盛岡に移り、藩主利雄の弟彦九郎信起の相手役となり、元文四年士班に列した。寛保元年足高新田六十一石を与えられ、合わせて百一石となった。岩崎番所番人を勤め、寛延元年死去した。その跡を嫡子岩之助常善(のち勝太夫)が相続。幼少相続により半地を収められ、地方五十五石五斗となった。本丸末取次を勤め、宝暦十二年死去した。その跡を大巻勇助秀詮の養弟、内実工藤武次郎の弟宇太郎常真(のち覚右衛門)が末期養子となり相続した。石間屋敷取次、賄頭、二子万丁目通代官、野辺地通代官、台所奉行を歴任した。寛政十二年以降の事績は未詳である。その後文化九年に五戸通代官及川勇右衛門が見える。覚右衛門と同人か、その嗣子か続柄未詳ながら八幡寺林通代官、野辺地通代官としても散見する。天保五年隠居した。その跡を繁人(目付所物書当分、北地用改役)━勇次郎常綏(慶応三年家督)と継いだ。明治十一年の士族明細帳によれば、常綏は当時新庄村(盛岡市)二十三番屋敷に住居していた。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。地方五十五石九斗七升二合の采地は、十石余を鬼柳通煤孫村(北上市)に、十一石余を黒沢尻通上江釣子村(北上市)に、九石余を同通横川目村(北上市)に、六石余を同通竪川目村(北上市)に、十七石余を同通藤沢村(東和町)に食邑していた。

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