大川 おおかわ

大川仁兵衛家 200621

 明治元年の支配帳に大川仁兵衛家がある。『参考諸家系図』は大川勘兵衛義基を祖と伝える。義基は大川龍助家と同族と伝え、閉伊郡大川村(岩泉村)に住居していたが、藩主重直の時に召出され、現米十駄(高二十石)を食禄した。その後寛文五年前禄を停めて地方五十石を稗貫郡新堀村(石鳥谷町)に拝領、同七年死去した。その跡を嫡子与五右衛門義国(毛馬内蔵奉行、元禄十五年に死去)した。その跡を与五兵衛(初め与兵衛、毛馬内蔵奉行、作事奉行などを勤めた)。享保十八年作事奉行勤中、病により江戸からの帰途小山駅(栃木県)で死去した。同所浄光寺に葬った。その跡を与一右衛門嘉当(初め与兵衛、本丸取次、越中畑番所番人、隅屋敷取次、角屋敷取次、謫人金森兵部少輔頼錦構番などを歴任。明和七年隠居)━勘兵衛義真(実は本堂源右衛門親由の六男、賄頭、野田通代官、大槌通代官、黒沢尻通代官)と継いだ。義真は寛政九年黒沢尻通代官勤中に罪を蒙り、家禄没収、隠居の上蟄居となった。蟄居は翌年赦された。その後文化元年家名再興が許され、養嗣子守之進義治(本堂源左衛門親次養四男、内実本堂源蔵親豊四男)が二人扶持(高十二石)を請けて家名立をした。義治は部屋住のうちから次役などを勤めていた。晩年は未詳であるが、文政三年には既にその嗣子左平太義方が散見する。北地改役となり、天保十二年隠居した。その跡を嫡子仁兵衛が相続、鉄山吟味役を勤めた。弘化二年に二駄を加増され、二駄二人扶持(高十六石)。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米十四石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治中の士族明細帳は、何れも仁兵衛の相続時期について天保十二年を否定し、弘化四年としているが理由は不明である。明治五年その跡を嫡子義郎が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時加賀野村三十三番屋敷に住居していた。その跡を義美、ヨシと相続した。 諸士リスト(う?お)

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