大萱生 おおがゆ

大萱生忠左衛門家 200621

 明治元年の支配帳に大萱生忠左衛門家がある。『参考諸家系図』は大萱生長左衛門秀春の四男庄右衛門秀正を祖と伝える。秀正は延宝五年中丸いろりの間に召出され、側役として無身帯米一駄を支給された。のち中奥小姓を勤めた。貞享四年初めて禄若干を食み、元禄元年現米十駄二人扶持(高三十二石)となった。その後下台所奉行、雫石通代官、田名部間尺役などを勤め、宝暦三年に隠居、享保六年死去した。大萱生系図によれば行年六十一歳とあり、一方父秀春について寺傳は寛文七年八十九歳で死去とある。これに従えば秀正は父八十三歳の時の子となる。養嗣子であることも無しとしないが、実子と伝えており、検証の要あることを付記する。その跡を嫡子庄兵衛(のち庄右衛門)秀安が相続、花巻新蔵奉行、江戸下屋敷鍵番、貞林院(利幹側室、利雄生母、橋本清兵衛吉祐女千代子)鍵番、同賄を勤め、宝暦三年に隠居、同九年死去した。嫡子長五郎秀位(秀貞とも)が本家を相続したため二男庄兵衛(のち庄右衛門)秀兼がその跡を相続、隅屋敷取次、盛岡東根山奉行、沼宮内蔵奉行、本丸末用達、錠口番を勤めた。天明中その跡を嫡子庄兵衛(のち庄右衛門)秀藤が相続、所々境番所番人を勤め寛政七年死去した。その跡を庄吉(のち忠左衛門、忠右衛門)秀徹が相続した。函館勤番、万所物書、駕籠脇取次を勤めて弘化三年隠居、安政六年死去した。その跡を隆治(のち忠左衛門)秀行が相続した。勘定方、宮古新道普請掛を勤めた。慶応元年現米六駄を扶持方に色替し四駄四人扶持(高三十二石)となった。明治九年隠居、同二十四年死去した。二弟に冨治があり、山屋権八の養子となった。その子に海軍大将山屋他人がある。他人は祖父大萱生秀徹の幼名を継いだものであった。その跡を嫡子秀治が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、当時東中野村三十番屋敷に住居していた。その後同十四年北海道の開拓に先覚して一家を引き連れ渡海、札幌郡篠路で万難を排して開墾に成功した。勧農の傍ら数々の地方公職に就き地域に貢献した。村総代人、学務委員、農会長、村会議員となり、部落のために所有地内を無償で道路、敷地に寄付は一二に止まらない。渡海の初念を一貫し大正四年隠居、同七年死去した。その跡を秀弥が相続、その子で当主の秀俊氏は北海道に在住している。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺、明治以降の墓地は札幌市篠路町の竜雲寺にある。 諸士リスト(う?お)

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