大嶋 おおしま

大島斎宮家 200621

 明治元年の支配帳に大島斎宮家がある。同家は浦田治左衛門の五男大嶋斎宮渡を祖と伝えている。斎宮は初名を浦田十治と称した。弘化二年に大年寄磯沢が名跡の家名立を許されて大嶋十治で召出され、三人扶持(高十八石)を宛行われた。斎宮はその後の改名。先供、中奥小姓、小納戸、附役、供頭を勤めた。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十二石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)の実収となった。維新後大島渡と改め、南部家の家従頭取を勤めた。その後明治十一年の士族明細帳によれば、仁王小路四十三番屋敷に住居と見える。同二十年死去した。その跡を継いだ嫡子興次は同二十八年清国金州で死去、その跡を長男興吉が相続。その長男で当主の文雄氏は宮城県に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の永泉寺にある。



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