太田 おおた

太田淳平家 200711100745

 明治元年の支配帳に太田淳平家がある。『参考諸家系図』は太田源太夫忠経の二男浅右衛門忠義を祖と伝える。忠義は藩主重信の時、七戸外記愛信(世子行信の八男)の臣となった。その子源蔵は初め愛信の臣であったが、愛信遺言の願により宝暦十二年、表に召出され、六駄二人扶持(高二十四石)を禄した。隅屋敷取次、石間屋敷取次、中屋敷取次などを勤めた。寛政十二年の支配帳に源蔵を見るが、晩年は未詳である。文政三年の支配帳は既に代替りをして嗣子多見平忠視で見える。雇勘定、二子万丁目代官所下役などを勤めた。のち勤中百石座となり、納戸役を勤めた。文久三年金方二十石を加増され、四両六駄二人扶持(高四十四石)となった。慶応元年金方十二石を扶持方に色替、同三年には現米十二石が扶持方に色替の上、金方六石を加増されて金方五十石うち六人扶持となった。不変流棒長刀組合居合を鈴木弥助範衆に師事して同流師範となり、その奥義を上村分左衛門に継承。慶応三年死去し、その跡を嫡子惇平忠篤が相続した。明治十一年の士族明細帳によれば、当時加賀野村(盛岡市)七十八番屋敷に住居。その跡を忠恕━国三━四郎と相続、その子で当主の惇平は神奈川県に在住する。歴代の墓地は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。


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