太田 おおた

太田新太郎家 200724100435


 明治元年の支配帳に太田新太郎家がある。『参考諸家系図』は太田吉郎右衛門を祖と伝える。吉郎左衛門は関ヶ原の落武者と伝え、諸国流浪の末南部領鹿角に落居したという。その子新左衛門は元禄八年に死去。新左衛門の孫の吉内は商家として家産の礎を築き延享三年死去した。その子新助冨昌は父の跡を継ぎ財を為し冨家となり文化九年死去した。妻の戒名は貞寿院椿齢妙算大姉と見え、内助の功の大きかったことが窺われる。その子新右衛門(のち新助)昌穏は、文化十一年北地警備の物入り、下屋敷類焼に当たり玄米三百五十駄を献納した。その功により毛馬内給人に召出され、地方二十五石一斗二合を知行した。その後新田開発により漸増し、文政十一年の支配帳には百四十石二斗二升五合と見える。天保三年寸志金二十五両と玄米二十五駄を献納し毛馬内住居盛岡支配となった。同七年沢内給人に徙されたが、のち還住。嘉永七年新地差戻の令により地方百二十五石一升六合となり、安政二年弟藤右衛門に十石一斗四升を分知。百十四石八斗七升六合となった。毛馬内通密馬改役、同通牛馬役、同通代官所下役、同通国産鯉作方用懸などを勤めて安政三年死去した。その跡を嫡子新太郎昌興が相続、中丸番子組頭、目付使番兼帯などを勤めた。慶応二年地方六石八斗を加増、百二十一石六斗七升六合となった。明治二年に隠居、同十六年死去した。その跡を嫡子源吾昌言が相続。明治十一年の士族明細帳によれば、当時猪去村(盛岡市)二番屋敷に住居していた。同二十四年死去した。その跡を新助、戌太郎、昌雄と相続、その子で当主の昌利氏は東京都に在住する。歴代の墓地は秋田県鹿角市毛馬内の仁叟寺。


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