太田代 おおたしろ

太田代直蔵家 200808


 明治元年の支配帳に太田代直蔵家がある。『参考諸家系図』は江刺兵庫頭重恒譜代の臣にして菊池末流太田代宮内清也を祖と伝える。北上市立花の菊池家が所蔵する「藤原姓菊池氏正譜」(「岩手県史」第二巻所収)によれば、九州の豪族菊池氏の庶流と伝え、菊池肥後守武時が元弘三年に討死にの後、その子与一武隆八代の裔(世代割愛)光俊の子蔵人武恒が永正元年奥州に下向、江刺兵庫頭に仕え、その弟信恒が同郡太田代村(奥州市)に住居、その在名により太田代を称したと伝える。「奥南落穂集」によれば、宮内清也は江刺旧臣菊池末流太田代村に住し、主家没落浪人。花巻に来り寛永十三年重直公百石被下と見える。正保三歳山城守重直公御代御支配帳には「五十駄(高百石)・太田代宮内」が見える。同年死去した。その跡を長男弥平治正也が相続、新に現米二十五駄(高五十石)を食した。藩雑書によれば正保四年に簗川通川目付。その後慶安から承応中にかけて漆撹奉行での太田代弥兵衛が見える。しかし、太田代弥平治が慶安二年に「親宮内、本国仙台、御当代(重直)五十駄被下、拙者仙台生国、跡目高五拾石」と藩に由緒書上(「南部氏諸士由緒」)しており、弥兵衛は別人であると見るのが至当のようである。従って、弥兵衛に関する由緒は定かでない。弥平治の歿年も不明であるが、その跡は嫡子弥惣清邑(のち兵右衛門)が相続、武具奉行を勤めて延宝二年死去した。その跡を杤内平右衛門吉辰の長男虎之助清保(のち兵右衛門)が養嗣子となり相続。延宝九年に現米二十五駄を色替して七駄六人扶持(高は同じ)となった。各地代官を勤めて宝永元年に隠居。同六年隠居料十人扶持(高六十石)を食して舫奉行となり、次いで勘定頭、元〆を勤めた。正徳六年十人加扶持で、二十人扶持(高百二十石)となり、享保二年その禄を以て更に召出され、命により杤内氏に復して一家(杤内兵蔵家)を興した。享保三年死去した。宝永元年清保隠居の跡を杤内平右衛門吉広の長男弥惣清達(のち次郎助、兵右衛門)が相続した。安俵高木通代官、雫石通代官を勤め寛保元年江戸で死去。江戸愛宕下の天徳寺に埋葬された。その跡を嫡子弥五郎清綱(のち弥右衛門)が相続。石間屋敷取次、別段廻、新山物留番所番人、徳田通代官、謫人金森兵部少輔頼錦構番、遊井名田番所番人などを歴任、安永五年死去した。その跡を北民部家臣・諏訪内右衛門の子、内実浪人松井庄兵衛の子弥太郎(のち兵左衛門)が相続。寛政元年の国後・メシナの乱には幕命により待機のため、長柄小奉行として大畑まで出張した。同十二年の支配帳に散見するが、晩年は未詳である。参考諸家系図によれば寛政中に散見する兵左衛門の嗣子として坂牛治左衛門の弟周右衛門の存在が知られる。茂右衛門との関係は未詳である。茂右衛門の跡を嫡子直志が相続、安政二年に隠居した。その跡を嫡子直蔵が相続、その跡を明治元年に嫡子千蔵が相続、その跡を養嗣子源吉が同七年に相続した。同十一年の士族明細帳によれば、当時源吉は本宮村(盛岡市)五十六番屋敷に住居していた。その跡をタキ━文次郎と相続、その子で当主の俊雄は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。


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