大坪 おおつぼ 

大坪民之進家 200809

 明治元年の支配帳に大坪民之進家がある。『参考諸家系図』は大坪五右衛門を祖と伝える。
五右衛門は上小路組同心で享保中貸上金の功績があった。その子平治(のち利右衛門)義忠も今淵十郎左衛門預上小路組同心を勤めたが、享保二十年に父の貸上金の功績により刀差に召出され三駄二人扶持(高十八石)を禄し、相撲御用俗医を勤めた。安永四年江戸桜田の上屋敷類焼の時、再建費用として寸志金を献金し、士班に列した。盛岡孫蔵奉行加、年賦取立役などを勤めた。天明四年以降の事績は未詳である。参考諸家系図によれば、その跡を平治(のち五郎右衛門)、その跡を幸之丞(のち与兵衛)が相続したと見える。与兵衛は御役被仰付之類によれば寛政二年に渡物買方並取締方御用懸として散見する。推して幸之丞改め与兵衛と見られる。その後同十二年の支配帳に五右衛門があり、文化二年五右衛門は親平治の時から自弁で沢内通に杉を植立、自分も盛岡通近在に杉数万本を植林したことを賞され一人加扶持、三駄三人扶持(高二十四石)となった。その後文政三年の支配帳には五郎右衛門があり、御番割遠近帳によれば、同六年より平治が万所奉行を勤め、安政二年に隠居している。寛政十二年の五右衛門から安政二年隠居の平治まで何れも同人ではなかろうか。その跡を民之助(のち平治)が相続、代官を勤めた。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治四年に養嗣子織弥永次が相続、同十一年の士族明細帳によれば、内丸二十九番屋敷に住居と見える。

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