大森 おおもり

大森繹太郎家 200910

 

 明治元年の支配帳に大森繹太郎家がある。『参考諸家系図』は浄法寺松岡氏の分流大森十太夫忠善を祖と伝える。忠善は二戸郡大森村(二戸市)に住居、在名により氏とし、一生浪人にて死去したという。その子弥兵衛忠今、孫の庄五郎秀忠(のち茂太夫)ともに大森村浪居。秀忠の時、寛文九年に本家松岡八左衛門好忠の申し立てによって福岡に與力新田九十九石を給せられ福岡與力となり、元禄七年死去した。嫡子庄五郎は部屋住で父に先立ち死去。そのため秀忠の孫で庄五郎の子庄五郎忠冨(のち茂太夫、理左衛門)が嫡孫承祖した。元禄十年盛岡給人百石座となって盛岡に移住、大工奉行などを勤めた。その跡を文次郎忠囿(平沢正達親善の二男、のち佐左衛門、茂太夫、庄太夫)が相続。元文五年野竿新田三十石を願い出て宝暦二年披立、同年精検地により三十石を加増、次いで同三年現米十駄(高二十石)加増せられ高百五十石となった。奥使、供目付、側目付、毛馬内通代官、安俵高木通代官などを歴任した。天明九年に目付奥兼帯佐次右衛門を散見するが、忠囿と同人であろうか。寛政元年その嗣子吉次郎(のち野右衛門)が家督を継ぎ、側役を勤めた。文化三年の諸士屋敷並家図書上に野右衛門があり、高百五十石五斗、内十駄八人扶持と見える。家禄の変動を窺えるが、野右衛門の晩年は未詳である。その後文政三年の支配帳に嗣子佐五郎(のち理左衛門)があり、この間の相続と知られる。徒頭を勤め天保四年死去した。その跡を嫡子権六(のち佐左衛門)が相続、八幡寺林通代官、目付などを勤めた。その跡を嫡子繹太郎忠恕が慶応三年に相続、明治十一年の士族明細帳によれば、当時加賀野村二番屋敷に住居していた。


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