大矢 おおや

大矢源左衛門家 200910100247

 
 明治元年の支配帳に大矢源左衛門家がある。『参考諸家系図』は大矢清左衛門房因の次男三右衛門勝治を祖と伝える。勝治は藩主重直の時に召出され、五十石を禄して中里数馬直房(藩主重直の弟・のち八戸藩初代藩主)に仕えた。寛文五年八戸藩分封の時、直房に従って八戸に移り、高百五十石を禄した。同八年直房死去の時、禄を辞して浪人となり、江戸に住居。延宝七年盛岡藩に出仕。まず四人扶持(高二十四石)を食み、同年前禄を停めて現米百五十石を禄した。のち盛岡に移ったが、元禄二年京都岡崎屋敷番を勤め、翌三年死去した。その跡を源左衛門勝長(中村七郎左衛門英勝の二男、のち三右衛門)が末期養子となり相続。この時幼少により現米五十石を禄した。享保十三年実兄中村武左衛門の願によって、中村氏の知行所沼宮内通寄木村(八幡平市)に切添新田五十石の分地を受け、高百石となった。八幡寺林通代官、鹿角境奉行などを勤め、享保十七年死去した。その跡を嫡子五藤太勝続(のち三右衛門)が相続。八幡寺林通代官、日詰通代官、目付、鹿角境奉行などを歴任したが、目付勤中の宝暦三年に現米五十石を加増せられ、高百五十石となり、同年下野(栃木県)日光本坊の修復普請手伝及び明和七年に京都仙洞御所造営手伝の任に当たった。晩年は未詳である。その後寛政八年には源左衛門(奥寺八左衛門定孝二男、のち三右衛門)が花輪通代官として散見。同十二年の支配帳にも三右衛門は見え、文化三年の諸士屋敷並家図書上には嗣子官治と代替りしている。官治は見前向中野通代官、福岡通代官などを勤め、天保五年死去した。その跡を守衛(のち三右衛門、源左衛門、九十九)が相続。座敷奉行、武具奉行、納戸役などを勤めた。慶応元年現米四十二石を扶持方に色替、現米百五十石うち五十石新田無高、七人扶持となった。その跡を守衛が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、守衛同人であろうか勝成が仁王村(盛岡市)新山小路一番屋敷に住居と見える。その跡を、ヤス━スエ━勝太郎━勝郎━勝也と相続、当主の勝彦は宮城県に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。


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