大矢 おおや 

大矢理蔵家 200910100888


 明治元年の支配帳に大矢理蔵家がある。『参考諸家系図』は下野(栃木県)の人・大矢作右衛門好古を祖と伝える。好古は本名を大谷氏と伝え、初め大田原飛騨守に仕え近習を勤めたが、のち江戸に浪居した。その後森勘右衛門義豊の門人となり宝蔵院流鎗術を極めた。元禄十四年鎗術並びに戸田流劔術を以て南部家に召抱られ、五人扶持(高三十石)を禄した。享保五年死去。その跡を嫡子弥五郎(享保十七年死去)━作之進好陳(江刺舎人の家士・高屋七郎右衛門恒忠二男、幼少で相続、寛保二年死去)━平次郎定吉(岩瀬治兵衛定行二男、のち作右衛門、幼少相続、のち歩行火の廻り・下屋敷取次・角屋敷取次)と継いだ。定吉の晩年は未詳であるが、寛政十二年の支配帳に嗣子覚右衛門がある。覚右衛門はその後春木奉行、宮古通山木改下役などを勤めた。文政三年頃まで散見するが、同六年には嗣子覚蔵に代替わりしている。覚蔵は雇勘定方を勤め弘化四年死去した。その跡を文治好裕(のち理蔵)が相続、雇勘定方、郷村改用を勤めた。明治十一年の士族明細帳によれば、大沢川原四十六番屋敷に住居と見える。その跡を好道が相続、当主の初郎は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の永泉寺にある。


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