小笠原 おがさわら

小笠原悟家 201227

 
 明治元年の支配帳に小笠原悟家がある。『参考諸家系図』は小笠原嘉右衛門長玄を祖と伝える。長玄は寛文の頃か、藩主重信の時に召出され八駄二人扶持(高二十八石)を食んだと伝える。その子与次右衛門長信は、家督後享保六年に死去した。その跡を嫡子与次右衛門長主(のち嘉右衛門、別段廻、南部八助取次、歩行火の廻り、下屋敷取次、盛岡西根山奉行を勤め、宝暦六年死去)━伊四郎(大萱生兵馬の家士内村幸右衛門の次男、のち冨右衛門、冨)と相続した。伊四郎は歩行火の廻り、角屋敷取次、石間屋敷取次、雇勘定、舫所物書、舫奉行次役兼帯などを歴任した。この間、天明三年不作のため献金をして金方十石加増、二両八駄二人扶持(高三十八石)となった。その後寛政八年に足高収例により、安永三年以来の足高を収められ元高の八駄二人扶持(高二十八石)となったが、翌九年舫所の勤功を以て十一駄加増、十九駄二人扶持(高五十石)となった。その跡を二男冨弥長就(のち丹司、文政三年死去)━勇平(花巻給人小田代里籬の弟、のち冨右衛門、嘉永二年に隠居、同五年死去)━辰治(実は祖父長就の子。長就が死去の時一歳の乳飲み子であった、のち悟、牛馬改役などを勤めた)と相続。慶応元年に現米三駄を扶持方に色替し、十六駄三人扶持(高五十石)となった。その後嫡子仲が明治三年に相続、同十一年の士族明細帳によれば、加賀野村(盛岡市)八十一番屋敷に住居していた。その跡を実蔵━ハルと相続、当主の仲貞氏は滝沢村に在住する。


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