沖 おき

沖弥一家 201227


 明治元年の支配帳に沖弥一家がある。『参考諸家系図』は黒川嘉兵衛盛忠の弟黒川金左衛門の二男沖友庵盛武を祖と伝える。金左衛門は兄と倶に二本松城主松平大和守直基(誤傳・二本松城主は丹羽氏、松平大和守直基は出羽山形城主)に仕え、長男孫兵衛は父に継いで松平家に仕えたという。二男友庵盛武は二本松に生まれ、母方の氏を冒して沖氏を称し、江戸に出て吉田意庵の門に入り医師となった。延宝二年江戸で医師に召抱られ、高二百五十石と陸尺扶持四人扶持を食禄した。延宝五年更に高五十石を加増され、高三百石を禄して元禄二年死去した。その跡を市十郎盛章(のち忠敬 軍太、傳右衛門)が相続、元禄二年高五十石を弟武右衛門忠行に分知、残り二百五十石となった。田名部通代官、元〆を勤めた。藩の碩学小川尚亭に学び、博学多識、殊に財政経済の事に精通し、藩主利幹に仕え、殊に元〆として窮乏の財政再建に大いに実績を挙げた。享保十年に藩主利幹の死去に際し、翌十一年老臣の讒により職禄を没収され、永の暇を得て江戸に退去した。盛岡を出る時、涙する人多かったと伝えられ、その後忠敬に仕官の口は多かったが固辞したという。同十七年石見浜田藩(島根県)江戸家老岡田求馬の求めによって蝗害地を実査し対策した。藩主松平周防守康豊はその才を惜しみ二十人扶持を以て召抱ようとしたが固辞して仕えず、出入扶持三人扶持を食禄。その後元文四年南部家より帰参の遇を得たが、老病により帰参に至らず同年江戸で死去した。著書に大倹約目録一巻、小倹約目録一巻、志戸平温泉記一巻がある。その子十兵衛忠雄(のち市郎右衛門)は、享保十一年父と倶に江戸に登り、のち幕府の徒頭蜂屋民部包和(徒頭は享保十一年から同二十年迄)の組徒となった。元文五年幕府を辞去して帰参、常府となり父の旧禄高二百五十石を知行した。御者頭となり、寛延元年朝鮮人来朝の時、遠江(静岡県)舞坂駅送馬本使を勤めた寛延三年死去した。その跡を嫡子新八郎忠次(のち十兵衛 黒沢尻物留番所番人、使番を勤めた。宝暦六年半地取上、蟄居隠居)━十太夫忠清(幼少相続 百二十五石 のち軍太、傳右衛門 座敷奉行表給仕兼帯、雫石通代官、大槌通代官、黒沢尻通代官 文政十一年隠居)━傳作(天保三年死去)━嫡子弥一盛茂(二子通代官、納戸役な)と継いだ。その後明治四年嫡子盛勝が相続、同十一年の士族明細帳によれば、盛勝は当時三ツ割村(盛岡市)一番屋敷に住居と見える。その跡を盛治が相続、当主の典は大阪府に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。


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