鬼柳 おにやなぎ

鬼柳末治家 210121

 明治元年の支配帳に鬼柳末治家がある。『参考諸家系図』は鬼柳二郎左衛門尉光義の末裔伊賀守義邑を祖と伝える。鬼柳家は和賀氏の分流で和賀郡鬼柳郷(北上市)を領地したことから在名により苗字としている。鎌倉期から南北朝期に至る中世文書を所有(現東北大学架蔵)する旧族である。和賀氏の出自は武蔵七党の一、横山小野氏から出た中条氏とされている。同家文書によれば、中条法橋盛尋の子義季は陸奥苅田郡(宮城県)を領して苅田平右衛門尉と号し、その子義行は苅田郡とともに和賀郡の地頭となり和賀左衛門入道と称した。苅田郡はのち執権北条氏の所領となったので本拠を和賀に移したものと見られる。仁治四年死去した。その子泰義は次郎左衛門尉、その子盛義は孫次郎と称した。続群書類従系図部の小野氏系図によれば、盛尋は野三郎太夫成任の子で「和田義盛の子となる」と見え、その子義季は中条藤次家長の弟。義季の子盛義は弥二郎とある。一連の文書上で鬼柳家始祖と見られる光義は、何誰の子か明らかでないが、通説的には泰義の子で盛義の弟と推定されている。光義に子が四男あり、長男を三郎光景、二男を四郎左衛門尉憲義、三男を五郎家行、四男を下総守時義と称した。長男光景の子を光家、その子を盛胤といい、二男憲義の子を義綱と称した。貞和四年に盛胤と義綱の両者間で領地訴訟があり、鎌倉幕府の判決は義綱の勝訴で結審した。伝える文書は義綱の軍忠に係るものが多く、後世の鬼柳家は推して義綱の子孫と知られる。末裔伊賀守義邑は、奥南落穂集によれば十二代中務大輔義翁五男伊賀守義幹の三代の孫と見える。その長男を三郎兵衛義敦、二男を蔵人義元といった。慶安五年書上集とされる南部氏諸士由緒は、親蔵人は七十五駄(高百五十石)を食禄し、自分蔵人は同心三十人を預かり、地方百五十石を食邑したとし、寛保三年書上系図の系胤譜考は、蔵人義次は寛永十五年現米を地方に色替し、和賀郡横川目村(北上市)に采地を食邑したとしている。先の自分蔵人と同人であろう。これらを総合した形で参考諸家系図は、奥南落穂集の蔵人義元に該当する人物を蔵人(三郎兵衛とも)茂満に作り、天正十八年主家和賀氏滅亡の時浪人となった。慶長中南部信直に召抱られ、現米七十五駄(高百五十石)を食禄した。その子を蔵人義次としている。慶長六年の和賀岩崎陣に従軍した人物に蔵人があり、また寛永十年諸国巡見使通行の時、者頭で道中道普請を勤めた蔵人も散見する。前者は親蔵人、後者は子の蔵人義次であろうか。義次は寛文五年死去した。義次には長男三右衛門義孝と二男十右衛門義治の二男あり、長男三右衛門義孝が家督を相続。その孫の三十郎義宴(実は磯田十右衛門義治の二男)が野辺地通代官勤中の宝暦二年に自殺し、嫡流の家名は断絶した。二男十右衛門義治は天和四年重信の世子行信に召出され、別に七駄二人扶持(高二十六石)を食禄したが、のち命により磯田氏を称した。能相手となり、地謡を勤めた。享保十二年に隠居、同十四年死去した。その跡を嫡子磯田伝内義且が相続した。普請奉行となり、元文五年盛岡城石垣築普請奉行、延享三年中津川普請奉行を勤めた。その後作事奉行となった。宝暦二年本家断絶により、同六年願によって鬼柳氏に復し鬼柳市郎兵衛と改名した。その後五戸蔵奉行、花巻本蔵奉行を勤め、明和五年死去した。その跡を本家鬼柳三十郎義宴の二男十兵衛(のち五兵衛、市兵衛)が養嗣子となり相続した。用の間物書を勤め、明和七年仙洞御所造営手伝に当たり京都に出張した。安永二年物書頭となり、同九年二人加扶持、七駄四人扶持(高三十七石)となった。同十年の甲州(山梨県)川々普請手伝には筆頭として従事した。寛政十三年に物書頭退役と見えるが、その後の事績は未詳である。文政三年の支配帳に嗣子であろうか、続柄未詳で十兵衛(のち市兵衛)があり、同十二年隠居した。雫石山奉行を勤めた。その跡を嫡子末太が相続。大更新田奉行を勤めた。その跡を嫡子末司由章が文久元年に相続をした。明治三年盛岡藩権少属を勤め、同四年死去した。算術を伯父横川良助に学び、多くの子弟に教授した。松原正固、藤原次郎吉、阿部和作、金田一勝定らはその門を出た。蔵書は孫の三郎によって中世文書とともに東北大学に寄贈された。由章の跡を嫡子国太郎が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、上衆小路十三番屋敷に住居と見えるた。その跡を三郎━和子と相続、当主の悠巳氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。

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