小原 おばら

小原春治家 210126

 明治元年の支配帳に小原春治家がある。『参考諸家系図』は藩主重信の子七戸外記愛信の側室自妙を祖と伝える。自妙は花巻給人簡伝右衛門利嶺の娘。愛信の側室として八女を儲け、愛信が死去して剃髪。自妙と称したが、のち光源院(行信の女)に仕えて、その篤実を賞され享保七年弟喜惣を嗣子として名跡立が許され、御徒に取立られた。この時、母方(母は花巻給人小原四郎右衛門峯定の女)の家名再興も許され、小原喜惣を名乗った。自妙のは没後、大慈寺にある光源院の墓の傍に葬られた。喜惣治その後、宝暦五年士班に列し、同十三年に隠居、明和三年死去した。その跡を長之助(のち磯右衛門)が幼児相続をした。時に二歳であったという。のち赤羽根番所番人、角屋敷取次、別段廻り、中屋敷取次、三戸主水(利視五男信駕、のち角屋敷家)賄役などを歴任。天明四年以降の事績は未詳である。寛政十二年の支配帳に嫡子であろうか貞助が見える。その後文政三年支配帳に貞助との関係は確認していないが弥平が見える。その子孫春治が明治四年に書上た由緒書には祖父を弥平といい、宗門改手伝を勤めたと記している。文政三年支配帳に散見する弥平と同一人であろう。その嫡子八十助道連は既に文政六年には当住として散見、大槌山奉行を勤めている。文久元年に死去した。その跡を春治道孝が相続。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米六石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の食んでいる。その跡を道時が明治八年に相続。同十一年の士族明細帳によれば、大清水小路二十三番屋敷に住居とある。歴代の墓地はは盛岡市北山の法泉寺である。


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