生内 おぼない

生内賢一郎家 210130


 明治元年の支配帳に生内賢一郎家がある。『参考諸家系図』は四国の人高橋大膳重光六代の孫、高橋判官歳直の三男筑後少政勝を祖と伝える。政勝ら兄弟は初め近江(滋賀県)にあったが、合戦に破れ、兄靱負少政道と倶に信濃(長野県)に落ちた。兄は甲斐(山梨県)の武田家に仕官したが、政勝は信濃を去り、伊達家に仕え、長男高橋主殿政長の子孫は仙台藩士となった。二男蔵人政行は白石伊達の戦の時に浪人となり、常陸(茨城県)に行き佐竹家に仕え、その長男出雲少政国は佐竹義宣に仕え、慶長七年に主家佐竹家が秋田久保田城に転封の時、主家に従って秋田に移り、子孫は秋田藩士となった。政国の二男主膳政秀は関東茂木(栃木県)落城の時に浪人となり、出羽仙北(秋田県)の領主戸沢能登守に仕えた。政秀に子が三男あり、長男藤馬尉政信は戸沢能登守と横手領主小野寺大隅守が合戦の時、戸沢氏角館城が落城。主家に従って同国最上(山形県)に移った。二男越後少信忠は角館落城の後、角館にあって、のち佐竹氏に仕えた。子孫は同所にあって生内氏を称した。三男亦左衛門信家も二兄と倶に角館にあって、のち佐竹氏に仕えた。信家の子は四男あり、長男を和泉信真、二男を又兵衛信照、三男を丹波信末、四男は久左衛門信時と称した。長男和泉信真は、角館落城の後浪人となり、糠部の福岡に来て藩主利直に召抱られ高百石を食む。のち高橋を生内氏と改めた。その跡を嫡子与五右衛門吉遠が相続、元禄七年新田二十五石を加増された。以上は、参考諸家系図の主説系図によった。一方、祐清私記「信直公北国往来之事」の項には、天正十八年信直は北国経由で小田原参陣の時、仙北で小保内禅門の館に宿陣。この時に禅門の三男竹松を召抱えたとあるが、「奥南落穂集」には、「生内和泉信真 文禄中福岡に来り仕利直公百石」 「和泉子生内与五右衛門吉遠 新田二十五石 没収」「吉遠子生内与右五衛門吉春 足高合百石 没収」とあって「祐清私記」の説には触れていない。なお、慶安五年の由緒書上集とされる南部氏諸士由緒によれば、藩への提出者は生保内与五右衛門吉遠は、「親与五右衛門は、当地(南部領)で生まれ、信濃様(藩主利直)より六十一石を下された。自分は親の跡目を御当代(藩主重直)より下され奉公している、親類は父方叔父生保内源右衛門の子の源右衛門(従弟)、母方叔父小田島主税、同三之助がある」と記している。参考諸家系図は信家の子は前記四人を伝えているが、源右衛門の名は見えない。当然その仕官も伝えていない。従弟とする生保内源右衛門の書上も同様で、両人の親は倶に当地で生まれ、出羽ないし仙北で生まれたとは言っていない。つまり、南部への移住は少なくとも祖父の代、またはそれ以前としている。史料的には後者の方が信憑性が高いと見られているから、参考諸家系図の検討が必要であろう。
何れにしても、与五右衛門吉遠は、その後元禄九年に死去している。吉遠には子が四男あり、長男を与五右衛門吉春、二男を文右衛門吉重、三男を与右衛門吉正、四男を与次右衛門吉堅と称した。家督は長男の吉春が相続。のち正徳五年に禄を収められ断絶した。二弟、三弟も別に召出されたが、兄の事件に連座して断絶した。四弟与次右衛門吉堅は、これより先、正徳四年に長兄吉春より知行新田のうち十四石九斗八升を分地して召出されていたが享保十九年隠居。その跡を平原弥三左衛門吉隆の三男源太吉清(のち与次右衛門)━与兵衛(献上鳥討、寛政十二年の支配帳にも与兵衛は見えるが、晩年の事績は未詳)と相続した。その後文政三年の支配帳には嫡子の多門(のち与兵衛、多門)があり、弘化三年に隠居。その跡を収(上領武左衛門の子、のち嘉平治)が相続。隅屋敷用聞を勤めた。慶応元年物価高騰を以て本高同様の手当米三石を支給され、手当米共で三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。その跡を同二年嫡子賀一郎定寛が相続、明治十一年の士族明細帳によれば、雫石村二百一番屋敷に住居と見える。その跡を定美━定三━定夫━ハナと相続、当主の美江は雫石町に在住する。


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