重茂 おもえ

重茂直見家 210130

 明治元年の支配帳に重茂直見家がある。『参考諸家系図』は閉伊十郎行光庶流・重茂与十郎義氏(義武とも)を祖と伝える。義氏は先祖代々(閉伊十郎行光嫡流)田鎖氏に属して閉伊郡重茂村(宮古市)を領し、在名により氏とした。南部信直より旧地重茂村に八十石を知行。慶長十九年大坂の陣に前衆として従軍した。遡って慶長六年和賀岩崎陣の時、義氏同人であろうか、或いは重茂氏嫡流か、惣軍勢先手の中に二百石重茂与八郎従者七人を見る。義氏に子は三男あり、嫡男(二代目)を与惣左衛門義国。家督後の寛永十年稗貫郡鍋倉村(花巻市)に二十石を加増、高百石となった。その嫡男権十郎義房が三代目を相続した。義氏の二男与三右衛門義明は一生浪人にて桜庭兵助の家に寄居し元禄四年死去したが、義明の長男次郎平義道は本家権十郎義房(従兄)の家名立の養嗣子となり本家四代目を相続した。義明の二男家之助義実は、初め世茂家之助を以て重信世子行信の小姓に召出され、のち命によって村氏を称し、村久左衛門と改めた。その子与九郎義秋の時、宝暦五年家名断絶となった。義氏の三男源助吉長は天和三年沼宮内通川口村(岩手町)に与力新田百石を請け、のち改有高三十四石六斗二升を食んで与力となった。のち宮古通重茂浦唐船番人(代々の家職となる)となり、その孫源助当昆の時、元文二年与力から宮古給人に昇進した。
三代目を相続した嫡子権十郎義房は、のち桜庭兵十郎乱心の時に横死し、一時禄を収められたが、その後寛文十年に家名立が許され、末家重茂次郎平(のち忠兵衛、与三右衛門)義明の長男で従弟の勘助義道(のち忠兵衛)が新たに召出(四代目)された。初め二人扶持を食み、同十一年五駄加増、のち又五駄一人扶持加増で、十駄三人扶持(高三十八石)となった。元禄三年死去した。五代目を治五右衛門義明(のち忠兵衛、治部右衛門)が相続、元文三年隠居した。六代目を嫡子忠右衛門義居(のち忠兵衛、勘定所雇物書、証書物書、新山留番所番人、釜石十分一取上役を勤め宝暦十一年死去)━七代目・郡右衛門(のち忠兵衛、下屋敷取次、百助相手、角屋敷取次、本丸末玄関番鍵番、新丸末取次、貞林院(藩主利幹即室、利雄生母、橋本清兵衛清吉女)取次など)と嗣いだ。忠兵衛について、天明四年以降晩年の事績は未詳であるが、寛政十二年の支配帳には嫡子であろうか(七代目ヵ)伊右衛門が見える。伊右衛門はその後文政十年に死去。八代目を翌十一年に忠平(のち与惣右衛門)が相続。駕籠頭となり、天保十一年に三駄加増、十三駄三人扶持(高四十四石)となり嘉永五年死去した。嫡子金八は部屋住で用人方物書を勤めたが父に先立ち死去。よって、孫の直見重当が嫡孫承祖して九代目となった。三戸蔵奉行、毛馬内蔵奉行、五戸蔵奉行を勤めた。慶応元年現米三駄を扶持方に色替し十駄四人扶持(高四十四石)となる。十代目を明治九年に嫡子勘次郎が相続。同十一年の士族明細帳によれば、当時上田村(盛岡市)四十九番屋敷に住居と見える。その跡を義雄━輝子と相続、十三代目の当主の雅宏は岩手県滝沢村に在住する。


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