織笠 おりかさ

織笠弓太家


明治元年支配帳に織笠弓太家がある。『参考諸家系図』によれば武田太郎信義の二男板垣三郎兼信三男福士四郎義之を遠祖とし、九代の孫・織笠庄次郎保定祖と伝える。四郎義之は甲斐福士郷を領して福士氏を称し、建久二年南部光行に随行して糠部に来たという。その九代の孫福士庄次郎保定は、永享十一年鎌倉陣の軍功により閉伊郡山田村、飯岡村、織笠村(以上山田町)を領有して織笠村に住居。在名により織笠氏と改め、その跡を右市助信定━久翁斎宗貞━次郎八義親━庄三郎兼親━庄太郎行定━宮内少輔道定━道円斉━右京助宗貞と相続、その子但馬盛貞は文禄四年に起きた閉伊地士騒動で没落、浪人となった。のち花巻に移り同地で死去、花巻雄山寺に葬られた。その子庄助保貞は花巻で彦九郎政直に仕え、馬廻りを勤めて百石を知行。その後元和四年に百石を加増され合二百石となり、寛永元年彦九郎政直の死去に伴って花巻郡代となる。この時、花巻給人を支配し、和稗二郡の制度を司り正保二年死去。その跡を嫡子斉宮連貞(花巻郡代、天和元年死去)━勘助親貞(のち斉宮、宝永元年死去、盛岡源勝寺に葬る)継いだ。当初実子が無く、赤前四郎右衛門吉政の二男片野桃之助貞則を養嗣子とした。貞則は初め赤前氏の二男で召出され、世子実信の小姓を勤めた。片野氏を拝領名。のち織笠に養子となり、織笠文右衛門を称し、元禄十一年部屋住で死去した。貞則が入籍後親貞に男子二人が出生。上を庄助(のち弾正)安禎、下を専次郎康貞と称した。安禎は宝永元年に父の家督を相続、弟の康貞は享保十六年召出されて御用の間物書となった。宝永元年父の家督を相続した安禎は、寺社町奉行、花巻城代、用人となり、宝暦四年には下野(栃木県)日光本坊の修復普請手伝いに添奉行を勤めている。同六年家老となり弾正の名を拝領、現米百石を加増され高三百石となる。同十年死去した。その跡を嫡子忠助貞功が相続、父の勤功により新丸番頭の家格となった。明和二年新丸番頭となり、寛政九年隠居、白応と号し享和四年死去した。その跡を嫡子平馬綽貞(寛政九年相続、文政八年隠居)━繁人貞祖(のち平馬、新番組番頭、嘉永四年隠居)━巌(新番組番頭)━弓太貞順(安政五年家督、のち四郎、目付、維新後盛岡藩大属)と継いだ。明治初年本姓の板垣氏に復し板垣四郎と称した。同八年士族明細帳では板垣貞順と改名後の氏名が見え、同十一年の士族明細帳には下米内村(盛岡市)十六番屋敷に住居と見える。その跡を亨介━光雄と相続、その娘は他姓に出て家名は絶えたが、その甥で当主の板垣吉郎氏は埼玉県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺にある。高三百石のうち地方二百石の采地は、高木通臥牛村(北上市)に百三十八石余、同通東十二町目村に四石余、黒沢尻通長沼村に五十二石余(以上花巻市)、毛馬内通大湯村(秋田県鹿角市)に四石余を領有していた。

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