梅内善斎

人物志

 自力、房説、新五郎、正徳五年九月御側小僧として召出され善斎と称した。享保元年二月二人扶持に四季施五両を賜る。同四年六月出仕を禁じられたが、利視のとき御使者給仕となり、更に茶道となる。のち還俗して表御次となり、元文三年五人扶持となる。宝暦五年禄を収められ福岡に追放、配所に没した。種子島砲術を大村理左衛門知陳にうけ、傑出八人の一人であった。


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