鶏冠井・楓 かえで

鶏冠井七右衛門家 210220

 
 明治元年の支配帳に鶏冠井七右衛門家がある。『参考諸家系図』は鶏冠井勘右衛門を祖と伝える。勘右衛門の先祖は山城(京都府)鶏冠井の人で、その在名により氏としたと伝える。勘右衛門は丹波(京都府)で生まれ、丹波山家領主谷出羽守(高一万六千石)に仕えて高二百石を知行した。公史である家老席雑書によれば、正保四年から同五年には客人として待遇され、盛岡近郊で鷹狩の馳走や、塩雁・鹿肉・米三十石等が江戸に贈られていた。その子四郎右衛門長政(のち四郎兵衛)は丹波で生まれ、のち江戸に住居。慶安二年江戸で召抱られ、五人扶持(高三十石)を給せられた。同年前禄を停めて地方二百石となり、采地を九戸郡山内村(軽米町)、二戸郡浄法寺村(二戸市)、三戸郡白坂村(青森県田子町)に知行した。慶安五年の鶏冠井四郎右衛門書上によれば、従弟横田権之助は松平陸奥守(仙台藩伊達家)にて千二百石を食み、甥福永亀之助はその父十太夫共々板倉周防守(重宗、京都所司代、下野関宿五万石城主)にあり、兄鶏冠井助左衛門は浪人にて丹波亀山(京都府)にあると記録している。万治元年沢内通代官となり、その後延宝八年死去した。その跡を嫡子助右衛門長治(のち四郎右衛門)が相続、元禄十四年死去した。その跡を五右衛門長明(のち四郎右衛門)が相続。彦九郎(利幹二男信起、のち三田家相続)附人を勤めて元文五年死去した。長治長明父子の二代は改姓時期は未詳であるが、楓氏で散見するほか、参考諸家系図によれば、この間に五右衛門長休の一代を入れる伝本があるという。長明の跡を右内栄漸(実大光寺左太夫政均の二男、宇内とも、のち五右衛門、四郎右衛門、岩崎番所番人・座敷奉行・黒沢尻物留番所番人・武具奉行、明和九年死去)━円左衛門(のち七右衛門、黒沢尻物留番所番人・江戸屋敷防用、駕籠脇、寛政十一年死去)━四郎右衛門長基(のち勘右衛門、花輪通代官・毛馬内通代官など、天保九年死去)━五右衛門康長(のち四郎右衛門、宮古代官など、嘉永二年に隠居、同年死去)━右内と相続した。安政三年十五石を現米に色替されたが、元治元年元地方に復した。明治二年隠居。清遊と改名した。その跡を嫡子国太郎長富が相続。明治九年の士族明細帳によれば、四ツ家町四十五番屋敷に住居と見える。同十三年コレラ流行の時、その予防に尽力した。その跡を智恵━誠━誠一郎と相続、当主誠は茨城県に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の報恩寺にある。二百石の采地は四十六石余を三戸通白坂村(青森県田子町)に、九十五石余を毛馬内通柴内村に、五十七石余を同通草木村(以上秋田県鹿角市)に食邑していた。

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