笠間 かさま

笠間喜内家 明治以降下田氏を名乗る 210331

 明治元年支配帳に笠間喜内家がある。『参考諸家系図』によれば笠間大膳の子笠間三之助綱輝を祖と伝える。綱輝の父大膳は初め常陸(茨城県)太田城主佐竹左中将義宣に仕えて笠間を領し、その在名により氏としたという。慶長六年、主家の秋田転封に際して浪人となり、会津で死去した。綱輝は父と倶に佐竹家にあったのち、伊予(愛媛県)宇和島城主伊達遠江守秀宗に仕え、その後去って再び浪人となり江戸に住居。万治中江戸で召抱られ、和賀郡轟木村(花巻市)に三百石を知行した。慶安五年の笠間三之助書上には、「拙者御家に参り高二百石を下さる」と見えるほか、公史である雑書には既に正保三年に御馬買衆への接待役として散見するから、石高にも疑問も残る。万治中は客分の処遇でも得ていたと考えるべきだろうか。のち東浦浜根井浦番、本丸番頭、三戸城代、鹿角西道金山奉行などを歴任した。その跡を嫡子弥太夫言政が相続、延宝三年死去した。言政には嗣子なく、二弟の弥右衛門(伊左衛門)言敬が順相続、この時、遺領のうち二百石を減ぜられ、轟木村(花巻市)に百石となった。毛馬内通代官、目付などを勤めて元禄十五年死去した。その跡を嫡子権之丞政興が相続、正徳元年死去した。その跡を岩間左次平政峰の二男喜内政之が相続した。政之は初め元禄中に岩間氏の二男で召出されて小性を勤め、四季施一両二歩と三人扶持(高二十五石五斗)を拝領。漸次加増して元禄十四年十両二人扶持(高七十二石)となったが、のち前禄を停めて二両二人扶持(高二十二石)となった。正徳元年養父政興の末期養子となり家督、家禄は半減して現米二十五駄(高五十石)で相続した。享保十五年に隠居。宝暦七年に死去した。その跡を熊原覚蔵直秀の弟定七直延(舞台番、寛保三年隠居、宝暦四年死去)━円子嘉右衛門種房の弟茂助祇道(舞台番、下屋敷取次、新山物留番所番人、沢内越中番所番人、石間屋敷鍵番、門馬山奉行、金森兵部少輔構番などを歴任、宝暦十四年死去)と継ぎ、その跡を五戸給人某の子伊右衛門(のち勘兵衛)政弥が相続した。新山物留番所番人、別段廻、角屋敷取次などを歴任し、孫蔵奉行勤中の安永四年罪を蒙り蟄居隠居した。その跡を養父祇道の子で政弥の養弟清右衛門(のち保太、喜内、弥右衛門)が相続。北浦見廻役、歩行火の廻などを勤め天保二年に隠居した。その跡を廉蔵が相続、天保十一年現米十二石を扶持方に色替して十九駄二人扶持(高五十石)となった。弘化三年隠居した。その跡を廉之助(のち喜内)が相続した。慶応元年現米十八石を扶持方に色替して十駄五人扶持(高五十石)となった。その跡を明治四年嫡子喜蔵政登が相続した。同年の士族明細帳には下山喜蔵、同年の士族旧禄所務書上帳には下山政登で記載されてあり、改姓の時期は未詳であるが、直前の明治三年と見られる。同十一年の士族明細帳によれば、上田小路二十六番屋敷に居住と見える。その跡を下田勉━雄三と相続、当主の下田正蔵氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の報恩寺にある。


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