笠原 かさはら

笠原周庵家 210331



 明治元年の支配帳に笠原周庵家がある。『参考諸家系図』は笠原周庵を祖と伝える。周庵は藩士奥瀬家に縁りの人で、傷寒医者と呼ばれ、剛気の人であったという逸話の多く伝わる人物である。戸を締切り重ね着をしている病人を見れば、周りまで病人になると云って部屋を解放した上で診療したという話。呼ばれて出向いた処、山伏が病魔退散の祈祷の最中であったが、山伏を口論の末に追い出して診療した話。周庵のいうには、俺が死ぬかお前が死ぬか、生き残った者が病人を看よう。まず俺を祈り殺せ。不運にも祈り殺されたなら自分の負け。死ななかったならお前を毒殺すると云って横になり、寝入ってしまった。山伏は一心不乱に祈祷を続けた。しばらくして周庵は目を覚まして起き上がり、次は俺の番だといって、丸薬一袋を取り出し山伏の前に置いた。山伏は命乞いをするので、周庵はその薬を口に含み、医者は無気に人を殺すものか、これは疝気の妙薬だといって高笑いしたと言った話。周庵はその後藩医に取立られ、三人扶持を給与されている。まず安永四年に浪人医として一生のうち擬扶持三人扶持を支給された。その後同四年に一生のうち本道医師に召出され、享和三年に永く医師となった。当初、江戸で召出されたものか、天明二年盛岡詰となった。文化九年死去した跡を賞意(のち周庵)が相続した。御医師の部によれば、安永十年に親周庵に子供がなく、出淵勝兵衛の子辰之進を養子とし、修行させることを願い出ているが、辰之進と賞意の関係は未詳。その跡を時期は未詳、嫡子宗叔が相続した。文政十一年の支配帳には周庵が見え、天保十一年の支配帳では既に宗叔に代替わりしている。宗叔は弘化嘉永中の役人帳では奥医師として散見、文久二年死去した。その跡を同三年嫡子の春庵(のち周庵、周造)が相続。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十二石を支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)の実収となった。明治三年か本姓小笠原に復して小笠原周造と改めた。同十一年の士族明細帳は、川原町十番屋敷に住居と伝える。歴代の墓地は盛岡市北山の法泉寺にある。

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