加島 かじま

加島鉞五郎家 210423


 明治元年の支配帳に加島鉞五郎家がある。『参考諸家系図』は加島助之進英積の四男金吾(のち判左衛門)英富を祖と伝える。英富は藩主利雄の時に召出され、四季施五両三人扶持を知行して定府となり、世子利謹の側役となった。のち定取次となり、明和七年留守居見習、のち留守居本役、次いで用人兼帯となった。安永七年勤中足高百石を加増され二百三石となり、その後も漸増。寛政十二年の支配帳には、金方二十一両八人扶持(高百五十三石)加島判左衛門で見える。その後英富の跡を嫡子七五郎が相続、文政五年に留守居見習、下屋敷留守居兼帯となり、同年留守居本役に昇進した。同七年の支配帳に七五郎が見えるものの、その跡を同年か、はたまた翌八年か、時期定かではないが七五郎の弟金弥(のち判左衛門)か順相続、文政八年に留守居見習となり、さらにに本役へと昇進。天保四年に罪を蒙り、留守居罷免、家禄三分の二取上の上蟄居、隠居となった。その跡を養子金吾英邦(のち七五郎)が相続、家禄は金方五十一石、うち八人扶持となった。初め小性当分加となり、のち留守居となった。隠居の判左衛門は天保十年罪を赦され、同十四年別に本姓の山内氏を以て召出され、山内判左衛門(のち大六)と改め、金方五十石を禄した。英邦の跡は嫡子鉞五郎英郎が安政四年に相続、文久二年国勝手となり盛岡に移住した。明治三年山内鉞五郎、更に山内英郎と改名。同十一年の士族明細帳によれば、平山小路一番屋敷に住居と見える。明治二十一年に嗣子がなく死去。その跡を姉信子の子であり、有島武の四男である甥の英男が継いだ。長兄武郎以下、愛、壬生馬、志摩、隆三、英夫、行郎の男五人女二人の兄弟。英男は里見とん(弓篇に享)を号し、同四十三年白樺同人として「お民さん」以下の諸作を発表。大正八年吉井勇らと雑誌「人間」を発刊した。代表作に「多情仏心」「安城家の兄弟」等がある。昭和二十五年文化勲章を受賞、同五十八年死去した。その跡を継いだ鉞郎は神奈川県に在住する。

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