帷子 かたひ「ら

帷子繁治

 明治元年の支配帳に帷子繁治家がある。『参考諸家系図』は帷子多左衛門吉恩の二男帷子兵蔵吉高を祖と伝える。吉高は藩主重信の時に召出され、漸次加増して現米二十三駄二人扶持(高五十八石)となり、天和三年現米十五駄を扶持方五人扶持に色替、八駄七人扶持(高五十八石)となる。天和三年死去した。その嫡子多平本吉は天和三年に家督を相続、のち雫石通代官、江戸で世孫実信附などを勤め、正徳六年死去した。その跡を嫡子兵左衛門(元文四年死去)━多右衛門吉道(のち多平、実は同苗帷子清助吉明の二男、貞林院利幹側室、橋本清兵衛清吉女取次、雫石通代官、金森兵部少輔頼錦構番、隅屋敷鍵番、世子信濃守のち廃世子利謹奥使、安永十年隠居)━郷右衛門(実は本家帷子多次右衛門吉武二男、牛馬定役、寛政六年死去)━多平(のち泰右衛門、実は養祖父吉道の子で郷右衛門の養弟、文化三年隠居、文政五年死去)━勇助(文政三年に家督)と嗣いだが、文政四年に養父泰右衛門が勤中の罪により身帯取上、家名断絶となった。その後家名立が許され、新に扶持方二人扶持高十二石、勘定改出役、勘定頭勘定奉行、嘉永五年二人加扶持で四人扶持、天保八年隠居)━才人(のち多八、勘定奉行、天保八年死去)━繁治吉通と相続した。安政二年野竿高として四十石七斗五升が加増され、同年そのうち三十八石六升九合が披揃となった。維新後盛岡県に出仕して同県少属を勤め明治三年隠居した。日新新聞によれば、同十年代には農事改良の実践家であり、地元養蚕方の改良に尽力した人物として評価している。その嫡子繁太郎吉康は明治三年に相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時上田村二百八十二番屋敷に住居していた。その跡を康一郎が相続、その子で当主の康雄氏は青森県在住。その母で旧盛岡藩士桑田の権利継承者ヤス氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。

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