帷子 かたびら

帷子賢治家 210426


 明治元年の支配帳に帷子賢治家がある。『参考諸家系図』は帷子次郎五郎吉真の二男帷子与惣左衛門吉明を祖と伝える。
 吉明は藩主重直の時に召出され、七駄二人扶持(高二十六石)を禄した。その跡を吉明━嫡子武左衛門政吉━新平政明と嗣いだと伝える。一方、重直が在世中の寛永・正保・慶安の各支配帳では確認できないこともあるが、身帯並御加増分地被召出類の天和二年三月十七日条によれば、帷子与惣左衛門が申上げるには、名代武右衛門は先年死去して以降、殊の外老体となり、(中略)三男新平が禄する二人扶持(高十二石)を、自分が禄する切米七駄(高十四石)と併せて七駄二人扶持とし、新平を名代に致したくと願い出ている。これによれば、吉明は当初七駄を禄していたこと。吉明の嫡子武右衛門政吉が部屋住で死去の後、別に召出されて二人扶持を禄していた三男新平政明を嫡子とし、政明が禄する二人扶持と合わせて七駄二人扶持となったことが知られる。参考諸家系図の誤伝と言えよう。新平政明は家督後、大迫蔵奉行を勤めて元禄四年死去。その跡は喜之助政芳(元禄四年家督、正徳四年死去)━武右衛門政倫(正徳四年家督、享保十八年隠居)━伝右衛門佳迢(のち伝兵衛、実は寄木安右衛門定義次男、歩行火の廻、本丸取次、盛岡東根山奉行、毛馬内蔵奉行、角屋敷鍵番、下屋敷鍵番、五戸蔵奉行、貞林院利幹側室、橋本清兵衛清吉女取次を勤め、安永七年隠居)━隣(のち才右衛門、馬門山奉行。寛政元年蝦夷氾濫の時、幕府の命により、鉄炮武者として大畑に待機した。文化十四年隠居)と嗣いだ。その跡を嫡子伝右衛門は文化十四年に家督、文政二年自殺して大法により身帯取上、家名断絶となった。のち家名立が許され金之助(実弟、のち久人、民司、民治)が改めて召出され、二人扶持(高十二石、西根山奉行)を禄した。その跡を嫡子礼惟清が安政六年に相続。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十八石を支給され、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳によれば、浅岸村(盛岡市)八十五番屋敷に住居と見える。その跡を惟政━吉高━金之助━吉郎と相続し、当主康雄は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。

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