帷子 かたびら

帷子権蔵家 210426


 明治元年の支配帳に帷子権蔵家がある。『参考諸家系図』は帷子吉恩五男半兵衛吉降(一書、降を隆に作る)の三男帷子五月吉金を祖と伝える。吉金は藩主利幹の時に召出されて小姓となり、金方六十三石を禄したという。享保二年のいろは御支配帳には未だ記載なく、同十年と推定される享保御支配帳には八両三人扶持(高五十八石)とある。この間の出仕であろうか。当初から金方六十三石とする参考諸家系図の説も、享保御支配帳の高を傍証する史料も管見にないが、御番割遠近帳の元文三年条では既に九両三人扶持(高六十八石)とあり、仮に享保御支配帳が正しければ、享保十年以降に十石の加増があったことになる。後考を俟つ。吉金は寛保三年に隠居。その跡を嫡子新太郎(のち瀬左衛門、明和三年死去)━嫡子駒太郎(のち瀬左衛門、寛政九年死去)━嫡子命助(のち啓助、文政三年死去)と相続。命助の跡は嫡子安之助が二歳での相続、翌四年夭死している。その跡を多蔵(実は本家帷子多次右衛門吉魏三男)が末期の養嗣子となり相続した。天保六年罪を蒙り、身帯二分の一取上隠居となり、家禄は一両二歩四人扶持(高三十一石五斗)に落ちた。その跡を石原安兵衛の二男鉄之助(のち茂、保之助)が相続、天保十一年隠居している。その跡を嫡子喜代治(のち喜代司、長助、多蔵、正、宮古山奉行、嘉永四年死去)━嫡子権蔵吉富と嗣いだ。吉富の相続は嘉永四年とする士族明細帳、嘉永五年とする御番割遠近帳がある。野辺地通代官所下役、宮古代官所下役などを勤め、明治十一年の士族明細帳によれば、鷹匠小路六十一番屋敷に住居と見える。その跡を勝得━一郎と相続、当主の俊一は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市本町通の大泉寺にある。

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