加藤 かとう

加藤元啓家



 明治元年の支配帳に本道御医師加藤元啓家がある。当家が初めて南部家に出仕した時期は未詳であるが、明治四年の盛岡藩士族書上帳によれば、加藤不可思貞之(安政三年家督、元啓同人)は、父元昌、祖父も元昌と書上げている。当家は嘉永二年の支配帳に見えないが、安政二年の支配帳に五人扶持・本道外科兼加藤元啓が見える。明治四年の書上帳に見える父元昌と同人であろう。御医師遠近帳によれば、貞之は文久二年の条に元啓で散見、文久三年江戸屋敷財政改革に伴う規模縮小のため、江戸詰の処を国勝手となり盛岡に移住、領分薬草用立御用を勤めたことが知られる。明治十一年の士族明細帳には当時鵜飼村(滝沢村)十七番屋敷に住居と見える。その跡を澄━トキ━平助━孝━タカと相続、当主の貞行は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺にある。家紋は祇園守を使用している。

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