金矢 かなや

金矢理蔵家 221106





 明治元年の支配帳に金矢理蔵家がある。『参考諸家系図』は 金矢与右衛門次光の二男与次右衛門光種を祖と伝える。 光種は藩主南部重信の代に徒に召出されて六駄二人扶持(高二十四石)となった、のち組附御免・士班に列し、享保六年に死去した。その跡を外甥で、平沢継右衛門親秀の三男又三郎(のち与惣右衛門、平右衛門)光武が相続した。享保十三年に四駄、更に宝暦二年に九駄加増、十九駄二人扶持(高五十石)となった。藩主利視に近侍し、文学を以て任用された。馬術を能くしたとも知られる。宝暦八年死去した。その跡を光武の外甥である、中村武左衛門喜勝の三男忠兵衛(のち与惣右衛門)都合が養嗣子となり相続。雫石通代官、大迫通代官などを勤め、寛政八年隠居した。その跡を嫡子理蔵が相続、銅山取次物書兼帯山詰を勤めた。文化六年に死去した。その跡を嫡子又四郎光春が相続した。沼宮内通代官、福岡通代官などを歴任。文政四年世子利用が就封に際し、京都使者附添を勤めた。宝蔵院流槍術を今淵左市右衛門政識に師事して同流師範となり、その奥義を今淵半九郎政応に継承した。天保九年隠居して睡蝶と号し、安政六年に死去した。その跡を嫡子保太(のち理蔵)光泰が相続した。銅山敷内改役、宮古通代官を勤め、明治三年に隠居、桃渓と号した。また子陽と号して画を能くし、俳諧を嗜んだともいう。明治二十二年死去した。その跡を明治三年に養嗣子淳蔵光貞が相続、同十一年の士族明細帳によれば、当時東磐井郡川崎村八番屋敷に住居していた。その跡を光春、光一と相続、当主の光紀氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の報恩寺にある。





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