辛 かのと  

辛 頼母家


明治元年支配帳に御新丸番頭・辛 頼母家がある。『参考諸家系図』によれば中野筑後光康の二男辛文七金永を祖と伝える。享保十四年父中野筑後光康より百石を分地せられ、家格を御新丸番頭に据えられたが、この時、金永は誕生が享保六年辛丑の年であったことに因み、藩主利視より拝領した家名である。はじめ御側役となり、御新丸御番頭を勤め安永四年死去した。その跡を嫡子造酒康般が相続、御新丸御番頭となり文化八年に隠居した。文政五年死去した。その跡を織衛(のち頼母)康良が相続、同十二年に隠居して文政四年死去した。その跡を文化十二年に実弟健之助(のち河内、造酒)康宝が養嗣子となり順相続した。同十四年に隠居。天保五年に死去した。康宝の家督は本家中野筑後康孝の弟津門康官が養嗣子となり相続、天保三年養父康宝に先立ちに死去した。その跡を康官甥の文七(中野筑後康孝の二男)が相続。御新丸御番頭を勤め安政五年に隠居。その跡を嫡子初弥(のち頼母)康貞が相続した。その跡を明治七年に嫡子文弥が相続。明治十一年の士族明細帳によれば、寄木村(八幡平市)五十四番屋敷に住居と見える。その跡を喜代治、ナオ(平成四年百四歳の長寿を全うした)、サトと継ぎ、当主の陽一氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の報恩寺にある。高百石の采地は大槌通飯岡村(山田町)にあった。

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