川口 かわぐち

川口瀬右衛門家 210304


 明治元年の支配帳に川口瀬右衛門家がある。『参考諸家系図』は川村次郎平秀則の弟川村弥吉(のち瀬兵衛)秀親を祖と伝える。秀親は寛文十年に父死去の時四歳の幼少でため、太田縫殿助義興の二男主税秀定が養嗣子となり家督を相続。秀親は養兄主税秀定に養育された。のち正保元年別に馬責に召出され、二石四斗二人扶持を給与された。寛文七年二石四斗を停めて六駄を加増、六駄二人扶持(高二十四石)なった。のち組付御免となり、士班に列せられ、元禄四年死去した。その跡を嫡子清太夫(のち瀬兵衛)秀豊が相続、遺禄のうち一駄を減じ、五駄二人扶持(高二十二石)となる。新山物留番所番人を勤め延享三年死去した。その跡を儀兵衛秀峯(角屋敷取次、火の廻りを勤め、明和四年死去)━金吾(のち治部右衛門、同六年隠居)━左吉(実は同苗川口幸右衛門秀良の二男、のち武蔵、瀬兵衛、儀兵衛、石間屋敷取次、中屋敷取次、角屋敷取次、別段廻り、隅屋敷取次、御礼帳所物書、雇勘定方、火の廻り、文化十年に隠居)━七郎(実は同苗川口武右衛門の二男喜、のち瀬兵衛、山木改下役、安政三年隠居)━瀬右衛門(のち瀬兵衛、瀬右衛門、儀平、在々諸普請吟味方)と嗣いだ。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米八石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治元年の戊辰戦争鹿角口の戦いに二男春治は出羽秋田郡前山付近(秋田県鷹巣町)で戦死。若干二十三歳であった。同十一年の士族明細帳によれば、儀平は上田小路四十一番屋敷に住居と見える。その跡を瀬蔵一瀬太郎一ハル一政一政治と相続、当主のヨシノは北海道に在住する。歴代の墓地は盛岡市材木町の永祥院にある。

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