川村 かわむら

川村孫助家 200628

 明治元年支配帳に川村孫助家がある。『参考諸家系図』によれば河村飛騨秀定の次男河村右近秀久の孫弥十郎(二代目)を祖と伝える。南部信直の代に、秀久は兄大萱生玄蕃秀重の名代としてたびたび軍役を務めた。のち秀重より百石を給され、同家の家士となった。その跡は弥十郎━弥十郎(二代目)━弥十郎秀治と継ぎ、この系は代々大萱生家の臣であった。二代目弥十郎の次男にして三男弥十郎秀治の二弟弥四郎秀祐は藩主重信の代に召し出され用の間物書となった。貞享五年初めて三駄一人扶持(高十二石)を禄し、元禄二年に一人扶持、同七年に十二駄、のち三人扶持、宝永二年に二十駄加増となり、三十五駄五人扶持(高百石)となった。享保五年死去。その跡は金蔵秀定(栃内金左衛門吉忠の次男、実は秀祐の末弟、同十一年没)━金助秀春(同十七年没)━長助秀勝(のち長太夫、岩崎物留番所番人、元文五年没)━伝八秀延(のち長太夫、本家川村弥右衛門の次男、宝暦九年隠居)━正吉(のち三右衛門、雫石川筏奉行・新丸裏門番など、天明四年没)━虎之進(のち弥三右衛門、文政五年隠居)と継ぐ。虎之進の跡は旧姓柴内氏の孫助寛綽が養子相続した。南部丹波守家老などを歴任。和算を初め志賀吉倫に学び、江戸勤番中藤田寡言に学び、嘉言没後その子定升の教えを受けた。環山と号し、著書に『乗除法定位解』などが伝えられている。嘉永四年死去。その子藤吉(のち辺・寛治・孫助)は納戸・福岡通代官などを務め、慶応元年現米十二石を扶持方に替え、二十九駄七人扶持(高百石)となった。茶道、俳諧をよくし、明治三年に隠居、同十八年に死去。その子福太郎秀治は同十一年の士族明細帳によれば、初め盛岡の上衆小路六番屋敷、のち内加賀野村(盛岡市)三十四番屋敷に居住。歴代の墓地は盛岡市の東顕寺にある。

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