川守田 かわもりた

川守田文蔵家 200628

 明治元年支配帳に川守田文蔵家がある。『参考諸家系図』によれば、先祖は南部光行に従って建久二年に甲斐国(山梨県)から糠部に到来、甲斐譜代として南部氏に仕えた。中興の祖川守田常陸正広は天正十年、晴継の葬礼が終えた世子南部信直が帰城の途路、九戸勢に襲われた際、救援して川守田城に迎え入れた。蔭直襲封後この功によって四百石を知行したと伝える。この事件は『南部根元記』などの史書にも伝えられるが、『八戸家伝記』は信直川守田毘沙門堂社参の時のこととしている。なお、九戸政実一揆以前、早くから信直方についた一族に川守田久左衛門も見える(奥南旧指録)。正広の跡は弥九郎秀正(馬廻りなど、鷹匠頭勤中の松前渡海時難船し溺死)━弥五兵衛正吉(重直の時先筒頭、万治元年没)と継ぐ。その子弥之助正定は父死去の時幼少により禄を収められ、万治三年新たに現米二十駄を禄した。延宝八年新田を願い請け、百石の軍役を務めた。花輪蔵奉行を務め貞享元年死去。その子弥之進正親(のち弥五兵衛)は次役・者頭を務め、元禄十一年川守田村に百石加増で高二百石となった。この年、東禅寺への南宗院(南部利直)霊屋造営の普請奉行を務め、宝永元年には盛岡城石垣普請大奉行を務めた。同二年その功により現米三十石を加増、高二百三十石となり、花輪境奉行・花輪郡代を務め、享保十一年に死去した。二弟の弥左衛門正高は金奉行・貨物奉行を務め、のち兄正親の養嗣子となったが、享保四年廃嫡、下田権兵衛預となり、思斎と号して同九年配所で死去した。正親の家督は正高の子三弥正吉(のち金弥・弥兵衛・弥五兵衛)が相続し、黒沢尻物留番所番人を務め、延享三年死去した。その跡は三弥正恒(のち金弥・弥太夫・弥五兵衛、赤羽根番所番人・目付など、天明六年没)━多右衛門吉寧(者頭・日詰長岡通代官、俳号瓢哉、慶応元年没)━文蔵広良(雫石通代官)と継ぐ。明治十一年の士族明細帳によれば、広良は上田村(盛岡市)七番屋敷に居住。その跡を良範━ハツエ━庄五郎━ハツエ━テツ━健次郎と相続して家名が絶え、盛岡藩士桑田の権利継承者は千葉県に在住。歴代の墓地は盛岡市の報恩寺にある。

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