桐生 きりう

桐生作善家 200814

 明治元年の支配帳に桐生作善家がある。『参考諸家系図』は桐生源左衛門邑成を祖と伝える。邑成は上野(群馬県)又は武蔵豊島(東京都)の人と伝え、藩主重信の治世に鎗術練達の人として江戸で召抱られた。金方二百石を禄し、目付、吟味役を勤めた。妻帯せず正徳四年死去。その跡を松田伊兵衛徳次の三男嘉八郎邑次(のち富右衛門)が末期養子となり相続した。邑次は初め松田氏三男として召出され、五人扶持(高三十石)を禄し、三戸左近尚信(のち三十二代利幹)側役を勤め、宝永六年十駄加増、同八年に十駄加増で二十駄五人扶持(高七十石)となった。正徳四年命により、禄を停めて邑成の末期の養子となり桐生家を相続。享保九年死去した。その跡を邑次の甥で松田六右衛門次章の二男覚之進邑明(のち源左衛門)が末期養子となり相続、同十四年死去した。その跡を邑明の甥で松田六右衛門次温の二男門五郎邑章(紋九郎とも、のち富右衛門、平左衛門)が末期養子となり相続した。黒沢尻番所番人、使番、武具奉行、船奉行、五戸通代官、長柄頭、目付、物頭、安俵高木通代官、宮古通代官、三戸通代官を歴任した。この間、宝暦三年に下野(栃木県)の日光本坊修復普請手伝には現地に赴き石方を担当。天明三年死去した。その跡を嫡子杢左衛門邑定が相続、同六年不作の時、勝手向きに寸志金を献金。その功として金方二百石の内四十二石を、扶持方四人扶持に色替された。寛政八年足高収例により元高金方二百石となる。者頭、鹿角境奉行を勤め、文化二年に隠居、同三年死去した。その跡を嫡子平左衛門(のち富右衛門)が相続、同八年隠居した。その跡を嫡子門五郎邑明(のち源左衛門)が相続して文政七年に死去した。その跡を邑明の叔父で、祖父邑定の三男武邑政が末期養子となり相続した。武具奉行を勤め、同十二年死去した。その跡を肥田昌伯の弟富弥(のち蔀)が相続して中奥小姓を勤め、同八年隠居、元治元年に死去した。蔀に子がなく、叔母を養女として奥寺八左衛門の弟隼太(のち作善)を娶り、隼太が相続した。納戸役、持筒頭、御側目付目付兼帯、御側勘定奉行、御用人側兼帯花巻城代などを歴任、この間、安政四カ年に作善と名を拝領している。維新後は参政となった。笠庵と号し、米庵流書家として知られる。明治五年死去した。その跡を嫡子晋が相続、同十一年の士族明細帳によれば、日影門外小路五番屋敷に住居と見える。その跡を成雄、俊夫と相続、その子で当主の勝彦は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の大慈寺にある。
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