桜庭 さくらば 

桜庭祐橘家 大桜庭


明治元年支配帳に着座高知・桜庭祐橘家がある。『参考諸家系図』によれば、宇多源氏佐々木流。桜庭介良綱を遠祖とし、桜庭安房光康を祖と伝える。桜庭介良綱は南部祖光行に従って甲斐より糠部に下向。その後、応永中に桜庭左近将監があり、南部守行が出羽秋田の安東氏との合戦の時、左近将監は敵地深く入り、四目結紋の立物の旗が千切れる奮戦の上勝利を収める軍功を挙げた。その後桜庭家はこの戦いを記念して釘貫紋を使用。同家の家臣にも、三目紋、釘貫紋を使用する家が多い。この故事を後世における閉伊合戦・閉伊平定の時とする伝えもある。

なお『参考諸家系図』は『吾妻鏡』元暦二年二月一八日条に見える阿波国(徳島県)住人桜庭介良遠の同族かとしているが、この記事は『系胤譜考』にはなく、後世の付会だろう。また、津軽鼻和郡〔青森県〕に桜庭村があり、これを名字の地とする説もあるようだが、天文十五年の『津軽郡中名字』には見えず、桜庭村は近世の地名とするのが妥当であり、桜庭氏との関係は未詳。

以後、光康に至る世系は、天文年間の三戸(青森県)の火災の際に系図・古文書が焼失したため不明とされ、代々安房・左近・兵助・兵三郎を通称したという(『系胤譜考』〕。光康の子直綱が元服に際して南部信直より賜った一字書き出しには「佐々木与三郎源直綱」とあり(『御当家記録』/『宝翰類聚』所収文書〕、『南部根元記』に安芸・福士・三上と並んで甲州(山梨県)以来の「四天王」の家柄と記されていて、桜庭氏が佐々木氏の流れをくみ、また代々三戸南部氏の重臣だったことは疑いない。

事跡が明らかになるのは他の盛岡藩家臣と同様戦国末期の光康からで、『南部根元記』などの史書に信直の側近として頻出し、また閉伊・遠野方面への南部氏の勢力伸張に大きく貢献した(『祐清私記』、「野田家文書」)。同時期に桜庭兵助は信直の命を受けて津軽浪岡城の守備に当たったとされ(『祐清私記』)、天正二十年六月南部四十八注文に「櫛引、平城、破却、信直抱代官桜庭将監」と桜庭将監の名が見えるが、この二人は系図類では確認できない。

光康は南部政康、安信父子に仕え、三戸赤石舘に住居。のち天文三年閉伊郡平定に抜群の功績を挙げ、かつ地士の存続に勤めた。これを閉伊衆と称した。また家士に取り立てた者もあり、藩政末期、家士の員数九十九人を数えたが、閉伊士の系に連なる士が多い所以はそこにある。晩年閉伊郡の知行地仙徳村(宮古市)に真言宗長根寺、曹洞宗善徳寺を建立。慶長六年死去した。その嫡子安房直綱は天正十八年部屋住で九戸陣に従軍、家督後、慶長五年私兵を牽いて出羽最上陣、同年秋岩崎陣、翌六年春岩崎再陣に参陣。先手の騎将として軍功あり、同十九年大坂陣にも先手を勤めた。死去の時期について、元和三年(三戸・三光庵)、元和六年(北上市更木・永昌寺石碑)など諸説がある。直綱の跡を嫡子兵助直際が相続。部屋住の時から、父と倶に諸陣に従郡、寛永六年死去した。その跡を嫡子兵助光英が相続。寛永十五年家老となり、承応二年江戸屋敷普請惣奉行を勤めた。同年弟与三郎統元の子桜庭与十郎昌統に三百石を分地、残り千八百石となる。明暦三年秋田境の論争が幕府裁定に持ち込まれ、かつ津軽境の虎口堅固のため、境押さえとして毛馬内城を預り、采地を毛馬内村並びに近村に知行した。この時、毛馬内町は桜庭家の支配に置かれ、毛馬内城はその家士の守衛となる。なぉこの時、知行地毛馬内に曹洞宗仁叟寺を建立した。寛文五年重信襲封の功により二百石加増、二千石となった。同九年蝦夷地騒乱の時、加勢の惣大将として野辺地に出張、待機中に乱が平定し盛岡に帰陣したが、松前藩からの要請により鉄炮五十挺を贈ったという。延宝二年二百石加増。同八年二百石を二男桜庭兵左衛門生休(のち嫡男兵三郎直良、二男兵四郎統弧が共に本家を相続、家名は断絶した)に分地。天和二年病の時、藩主重信は自ら桜庭家を臨宅、病床を見舞った。数日後死去した。幼少から光英に養育された茂市三太夫実福の子右近(のち兵助)光金は、寛文六年部屋住で家老となり、天和二年光英没後の家督を相続した。元禄三年幕府老中阿部豊後守の内命により加判役(家老)となり、同五年藩主行信が襲封の時、漆戸甚左衛門茂慶と倶に、新藩主に従って将軍綱吉に謁見した。同六年幕府より祖父故兵助直際が将軍秀忠から下された御内書の所持を尋ねられ、その書を江戸に持参、将軍に謁見して上覧に入れた。同七年死去した。その跡を末家(養弟)桜庭兵左衛門生休の長男で兵三郎直良が筋目の嫡子となり相続した。妻には藩主行信の妹益姫(化粧料五百石を持参)を迎えたが、未だ婚せずして元禄十二年に直良が死去。実弟兵四郎(のち安房)統弧が末期の養子となりその家督を相続、益姫は統弧の妻となった。統弧は未だ幼少のため入輿は成人の後との命であった。統弧のち御側頭、次いで宝永五年家老となり、同七年江戸で死去した。益姫は未婚の儘未亡人となり、その跡を末期養子として継いだ同苗桜庭十郎右衛門憲統の二男井上兵八郎統愛の妻となった。しかし統愛し翌八年死去。益姫は統愛の死去に際して仏門に入り、剃髪して妙解院殿と称した。享保八年桜庭氏に死去。その化粧料五百石は統愛の嗣子兵助直高に返された。宝永八年統愛の跡を桜庭十郎右衛門憲統の三男で、統愛の実弟井上次郎吉(のち兵助)直高が益姫の養子となり相続した。この時二千石の内三百五十七石を収められ、残り千六百四十三石となった。享保五年妙解院が死去してその化粧料五百石を加増、二千百四十七石となり同十三年死去。その跡を同苗桜庭十郎右衛門統周の養嫡男、実は四戸久右衛門慶武の二男兵右衛門(のち安房、丹波)統起が末期養子となり相続した。この時百四十七石を収められ、二千石。同八年更に百石を桜庭与八郎統英に分地して、残り千九百石となった。寛保元年禁裏の即位賀使として京に登る。宝暦三年加判役(家老)となり、明和五年死去した。


桜庭安房光康━┳直綱┳直際┳光英┳光金=直良=統弧┳某(兵部)母は益姫
┃  ┃  ┃  ┣生休┳直良   ┗=統愛=直高
┃  ┃  ┃  ┃  ┗統弧
┃  ┃  ┃  ┗四戸信武妻
┃  ┃  ┗統元━昌統┳四戸武広妻
┃  ┃        ┗憲統┳統周=統起
┃  ┃           ┣統愛
┃  ┃           ┗直高
┃  ┗四戸武統┳信武
┃       ┗武済━慶武┳武群
┃             ┗桜庭統起
┗光忠━忠明━忠昆━統英    

その跡を嫡子肥後統意が相続、同七年に加判役となる。安永二年千徳村(宮古市)、長沢村(宮古市)に起目二百六十六石八斗余を加増、二千百六十六石余となった。その後若干の出入りがあった様子だが、詳細は未詳である。寛政三年死去した。その跡を嫡子吉治(のち兵庫)綱寛が相続、寛政九年毛馬内の町支配を解かれ毛馬内町を代官所に引き渡した。文化六年秋田境並びに境通知行地を巡検、同十一年在着使者を勤めた。同十二年御領分海岸御備頭、同十四年御番頭となり、文政七年死去。綱寛の跡を嫡子肥後綱久が相続、文政九年在着使者を勤めた。嘉永四年死去。その嫡子陽之助綱清は嘉永二年部屋住で北地大御番頭から加判役列、同三年加判役奥兼帯となり、同四年父の家督を相続。安政五年死去した。その跡を嫡子祐橘綱忠が相続、中丸御番頭を勤めた。慶応元年寛保新田の披立改高五十一石七斗四升九合を加増、二千百六十一石七斗九升六合となった。慶応元年支配帳によれば、高知が三等に区分され、桜庭家は三家に次ぐ、着座高知に列した。明治元年の桜庭御家中禄高座順調書によれば、同家家士は九十九人を書き上げ、支給禄高は知行高のうち千二百五十余石であった。同明治十一年の士族明細帳によれば、川又村(玉山村)三十四番屋敷に住居していた。その跡を綱得、正寿、トキ、正勝と相続した。歴代の墓地は、知行地菩堤寺のほか、盛岡市北山の聖寿寺にある。慶応元年加増直前の高、二千百九石九斗五升四合の采地は、七百八十三石余を毛馬内通毛馬内村、二百四十五石余を同通瀬田石村、一石余を同通松山村に、二百十八石余を同通大欠村に(以上秋田県鹿角市)に、十石を同通芦名沢村、百七十三石余を同通万谷村に、八十八石余を同通高清水村に、三百十七石余を同通荒川村に(以上秋田県小坂町)に、百石余を野田通普代村(普代村)に、十五石余を宮古通長沢村に、百五十五石余を同通千徳村(以上宮古市)に知行していた。

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