里見 さとみ

里見民蔵家 250412

 


 明治元年支配帳に里見民蔵家がある。『参考諸家系図』によれば里見太兵衛清重養二男里見与市右衛門栄久 を祖とする里見家である。栄久は実は八戸彌六郎家中・小軽米浅右衛門信昌の二男。初め亦助・亦市とも称した。宝永八年に御料理方見習に召し出され、江戸にて勤務した。正徳五年初めて三駄二人扶持を賜い、元文六年死去した。その跡を亦五郎栄春(又助)が幼少で相続した。寛保年間の『系胤譜考』、延享元年改『御支配帳』に見える又助は何れも同一人。あるいは天明初年の『御支配帳』に見える又助も同一人であろうか。文化年間の『諸士屋敷並建屋図書上』に散見する秀左衛門は、年齢から勘考して栄久の嗣子。文政六年写と表紙書きしている『御支配帳』には当該氏名の上に民蔵の張り紙があって判読できないが、明治四年『士族明細帳』には祖父秀左衛門・料理方、父良蔵・料理方、当主民蔵・文政三年家督とあるから、目張りされている氏名は良蔵てある。慶応元年『御支配帳』里見民蔵の箇所に、弘化三年十二月奥女中八十嶋家名立に当たり、実家宿元の理由を以て組付御免と付箋が張り紙されている。その後、藏奉行・槙木奉行・山奉行を歴任し廃藩となった。明治八年の『士族明細帳』によって諱は高政。同十年の『士族明細帳』により、志家五十三番屋敷に住所を有している。






 なお,「明治七年里見一栄嫡子高政 四十一歳 相続」とする記録もある。一栄は福治の隠居名と知られるが,一方,明治四年士族明細帳』福治五十一歳」福治と高政は別人となれば,年齢差十五歳。明治三年『戸籍』は「民治五十二歳、嫡子伝五郎二十一歳」と散見するから伝五郎とは別人である。後考を俟つ。










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