佐羽内 さばない

佐羽内貫市家 200915

              佐羽内駒太郎家分家

明治元年支配帳に佐羽内貫市家がある。『参考諸家系図』によれば佐羽内仁兵衛路啓の次男佐羽内周助一常(一親とも、のち才助・勇蔵)を祖とする佐羽内家がある。 一常は馬術練達の士として、安永年間馬方に召し出された。同三年袴代として年間二両を給され、のち本高となり十石を禄した。同七年二人加扶持、二両二人扶持(高二十八石)となり、同十年上段馬別当となった。天明二年二両取上げられ、寛政十一年金方十五石加増、高三十二石、ほかに勤中三両の足高を給された。 一和流馬術師範を兄佐羽内九郎兵衛実興より受け、後、実興の嫡子で甥の九郎治明矩に継承した。文化十一年隠居、隠居料三人扶持(高十八石)を給された。文政九年遠野で死去、同地善明寺に葬られた。その跡を官蔵勝徳(のち与七・勇蔵)が相続。文政九年に三駄加増、また同年隠居一常が死去して、その隠居料二人扶持を加増され、高二十九石となった。天保七年御側物書勤中にこれまで給された勤中一人扶持に一人扶持を加えて二人扶持加増、高六十九石、うち二駄八人扶持となった。『盛岡藩古武道史」によれば、一和流馬術師範を本家佐羽内九郎治明矩より受けて、後、明矩の嫡子佐羽内与次右衛門明生に継承した。江戸愛宕山の石段を乗り上げた武勇伝が伝えられている。その後、晩年の事跡は未詳であるが、同十二年の支配帳には養子其太寛紀(のち勇右衛門)の名で見える。寛紀は本家佐羽内与次右衛門明生の二弟。勝徳の養嗣子となり家督を相続した。中奥小姓を務めた。一和流馬術師範を見明生から受け、後、その流儀を明生の次男で甥の才治明徳に継承、安政二年死去した。その跡を嫡子平蔵実紀(のち貫市・貫一)が相続。明治八年その跡を嫡子勇蔵が相続した。明治十一年の士族明細帳によれば、上田村(盛岡市)百三十五番屋敷に居住していた。その跡は勇が相続、現当主慶祐は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市の光台寺にある。


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