佐羽内 さばない

佐羽内藤左衛門家 200915

              佐羽内駒太郎家分家

明治元年支配帳に佐羽内藤左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば佐羽内九郎治一明の嫡男仁兵衛養将を祖とする佐羽内家がある。養将は享保十年一明嫡子として側役を務めた。同十八年別に召し出され、七両七人扶持(高七十七石)を禄した。同二十一年前禄を停めて地方五十石金方十両(高百石)となり、長柄頭となった。のち御側役・宗門奉行を務め、明和六年死去した。その跡を中野吉兵衛光康の四男九左衛門(のち仁兵衛)康昌が養子となり相続し、雫石筏奉行を務めた。その跡を嫡子軍治(のち十郎左衛門・仁兵衛・仁八)が相続。黒沢尻物留番所番人などを務めた。ほかに筑前・仁兵衛の名で榊山社神官(文政三年まで)や茶道の心得があるため参勤交替中の駕籠茶道(文化四年)も務めた。晩年の事跡は未詳。その跡を才記吉機(のち藤左衛門)が相続した。その時期は未詳であるが、安政二年の支配帳にはすでにその名が見える。明治三年隠居し、東陸と号した。その跡を摘子隆蔵が相続、同十一年の士族明細帳によれば、加賀野村(盛岡市)百八十三番屋敷に居住していた。その跡を忠志―鉄郎が相続、現当主寛は滝沢市に在住する。歴代の墓地は光台寺にある。


一覧にもどる