猿賀 さるが

猿賀民之進家 210209


 嘉永支配帳によれば、1601席目に三人扶持猿賀権左衛門が散見、天保十二年十二月六日被召出とある。由緒その他については未詳。一方、明治四年士族明細帳には孫民治郎の書上げであるが、祖父猿賀権左衛門非役、父民治郎 徒目付とあり、自分民治郎は嘉永五年十二月家督と記録している。子の民治郎は初め民之進(明治八年士族明細帳)と称したとあるが、慶応元年改め支配帳にても民之進で確認される。明治元年三月改め支配帳には民治郎とあるから、この期間内にての改名と知られる。 嘉永五年十二月に家督。使番加、御広式取次物書兼帯、表御用部屋物書加、雇勘定方、と止めた後、文久二年大槌通代官所下役、慶応二年二子通代官所下役。下役は明治二年二月代官所廃止により闕役しなっている。明治初年本姓に復して織田民治郎と改めた。同十一年の士族明細帳によれば、加賀野新小路三十三番屋敷に住居、その後、志家村六十一番屋敷に転居が確認される。明治三年「戸籍」によれば、嫡子昌五郎六歳が散見するものの、その後は未詳。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある



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