三戸 さんのへ


藩主一門。藩主の子弟は、廿八代重信が一時、七戸氏を相続したとから、代々子弟は七戸氏を与えられることを例としていた。しかるに、三十三代利視はその子弟に三戸氏を与えて分立させた。三男徳次郎信伝は元文二年の生まれ。同四年に三戸氏を与えたが寛延三年麹町南部家三代を相続して断絶した。四男左京信居は元文三年生まれ。同四年三戸氏を称し、寛保二年百石を以て新屋敷家を創立した。五男万之助信駕は元文四年に生まれて延享三年三戸氏を称し、寛保二年に百石を以て角屋敷家を創立した。七男百助信周は延享元年に生まれて同三年三戸氏を称し、寛延三年五百石を以て中屋敷家を創立した。九男信明は延享五年に生まれ、宝暦三年三戸辰弥で三百石を食禄したが明和五年死去し断絶した。ほかに誕生の時を以て三戸氏を称した者がある。六男三戸千之助は寛保四年誕生、延享四年に四歳で死去した。八男三戸七之助は延享三年に生まれ翌四年死去した。十男三戸文吉は寛延三年三月に生まれ翌四年六月死去した。十一男三戸幸吉信由は寛延四年に生まれたが、宝暦三年三十四代利雄の養子として宗家に入り断絶、のち三十五代利正となった。三十八代利済は実は三十四代利雄の廃嫡利謹の長子として天明二年に生まれたが、僧籍に入り、その後文政三年還俗して三戸修礼謹明と名乗って四百石を禄し高知格に列せられた。翌四年八百石となり、家格を高知から家門に引き上げられ南部氏に改めた。利済はその後同八年藩主利用の急死に伴い宗家に入って三十八代を相続した。

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