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三戸式部家


明治元年支配帳に着座高知・三戸式部家がある。同家は角屋敷三戸雅楽助信敞の長男戸沢検校芳都を祖とする家である。芳都は眼病を煩い失明したため廃嫡となった。藩主利敬はこれを哀れみ、文化三年戸沢氏を与え、江戸にて寺家村検校の許で検校の号を取得させた。戸沢検校となった芳都は新たに召抱られ、文化六年金方十八両五人(高百二十石)を食禄した。文政九年に隠居。桂園與一と称し、慶応元年七月死去した。文政九年その跡を嫡子駿河済彰が相続した。この時地方四百八十石加増、高六百石となり、高知家格に据えられた。天保八年家老となり、同年藩制改革により着座高知の家格となった。嘉永元年八月命により当主、嫡子が三戸氏と改姓、他はこれまでの通り戸沢氏とされた。同三年百石加増、七百石となった。翌四年病により家老を退職、同六年死去した。その跡を実弟大五郎(のち式部、典膳)與忠が末期養子となり順相続した。初め戸沢大五郎で天保五年別に四両五人扶持を以て召抱えられ、同六年前禄を返上して兄の家督を相続した。文久二年家老となり、翌三年命により式部と改名、同年六松前表警衛、領分海岸防禦用懸の任に当たった。同年江戸城警備のため藩主名代となり新番頭毛馬内伊織など人数を率いてこれを勤めた。慶応二年新田開発による出高を加増、七百五十石六斗一升三合となった。同三年江戸表用懸、勝手用懸、銅山用懸を勤めた。その後、藩主名代として上洛、明治元年戊辰の役終戦に際して帰国、世子彦太郎とともに降伏のため総督府との折衝に当たった。明治三年隠居、平格と号して同十五年死去した。その跡を嫡子博麿與彰が相続。初め部屋住で慶応二年豊前を名乗り側詰を勤めた。明治三年参政(家老)側詰兼となり、同年辞任、同七年死去した。その跡を嫡子與行が相続、同二十二年死去した。歴代の墓所は盛岡市北山の聖寿寺にある。
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