中野 なかの

中野主馬家


明治元年支配帳に中野主馬家がある。『参考諸家系図』によれば、中野吉兵衛康致の長男伊織守利を祖と伝える。守利は初め嫡子として養育されたが元禄中に病により退嫡、同十六年浪人にて死去した。その長男権右衛門康官は、宝永四年に召出されて、志和郡伝法寺村、下松本村に二百石を知行。御新丸御番頭家格に据られた。晩年に隠居し享保十一年江戸で死去した。その跡を嫡子権七康次が相続。享保十一年死去した。その後を高野庄兵衛行持の四男甚之丞(のち内匠)保照が末期養子となり相続。御新丸御番頭を勤めて、安永十年死去した。康官の妹の子である。その跡を嫡子安兵衛保邦が相続。保邦は御新丸御番頭、御用人を勤めて文化十三年隠居、萬好と号し、翌十四年死去した。その跡を嫡子甚之丞が病身のため退嫡。次男儀八(のち兵馬、要人)保備が嫡子となり相続した。のち寛長と称した。嘉永二年金方三十石加増、文久三年金方二十石加増、高二百五十石となった。御近習頭格御側御用人となり、国絵図改訂御用懸、御馬御用懸、次いで御用人御側兼帯花巻城代を勤めた。心眼流剣術を米内伝左衛門秀政に師事して師範となり、三浦静馬頭冨に継承した。「武家諸系」は寛長に代えて同苗中野舎人康行とあるが「諸師範流祖書上」によって「武家諸系」に誤りがあるらしい。寛長はまた陶々、千里亭と号し、小野素郷通昭門にあって俳諧を嗜む士しとて知られた。元治元年死去した。家督は寛長相続の後に生まれた実兄甚之丞の子靱負保親が筋目の嫡子となり相続した。新番組番頭を勤め、慶応三年に隠居。浄水と号した。その跡を儀八郎(のち主馬)康雄が相続、新番組番頭を勤めた。その跡を明治七年に嫡子富五郎康得が相続。同十一年の士族明細帳によれば、志家村(盛岡市)三十五番屋敷に住居と記録している。その跡を省三が相続。当主正彦氏は福島県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の報恩寺にある。

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