長瀬 ながせ

長瀬速水家 200905101389

 明治元年の支配帳に長瀬速水家がある。『参考諸家系図』は本姓阿部氏・長瀬善太夫儀政を祖と伝える。儀政は閉伊郡遠野のうち長瀬村に生まれ氏とした。藩主行信の命により行事(盛岡藩では行司を行事と表記する)小笠原嘉左衛門の弟子となり、四季施若干を給せられ行事職となった。しかし、所伝によれば、分家・長瀬治部左衛門(万治三年死去、行年九十二歳)は既に行事道角力節会を行い、代々行事を勤めていたとあり、以前より家業としていた事が窺われる。のち藩財政立て直しのため相撲が永暇となった時、行事職は停止となり、別御用を命じられたが、禄を返上。別に領内中相撲行事一通を許され、領分中にて立行事となった。盛岡町相撲上覧の都度に行事を勤め、藩主南部利視の時、享保十二年に更に行事職に召出され、二人扶持(高十二石)を禄した。同年一人加扶持、三人扶持(高十八石)となった。同十四年に死去し、盛岡市・法泉寺に葬られた。その跡職を渡辺正運の養二男善次郎慶明(のち善太郎、越後)が二代目を相続、同十七年南部相撲が京・大坂で興行の時、藩命により一条関白兼香から相撲行事・官名越後を受領、帰国の後給人に召出された。小納戸物書、角屋敷賄物書を勤め、のち延享四年、行事岩井播磨守より行事免許目録、相撲行事目録が伝えられたと伝える。宝暦四年藩命により三戸信駕(南部利視九男)に仕えて別に三人扶持を禄し、同十二年に再び本藩に仕えて三人扶持を禄し、安永二年に隠居。同三年死去した。「たけたからくり」は、他国にての興行相撲に功績があったこと、就中、京都にての大相撲興行に際しては、土俵の作り方、四本掛堅屋の上に鯱を上げたことが二条家の不審をかい、その申し開きが伝書を添えて明快であったことから、南部相撲の伝統を宣伝したこと、併せて越後の名乗りを受領したことなどを記述、藩はこれを称し、百石格として御近習の列に加えたと伝える。法泉寺に碑名「元祖岩井播磨守末葉長瀬越後墓」の墓碑がある。三代目釜蔵(小林喜右衛門の弟、のち千太夫)は、「御番割遠近帳」によれば、宝暦四年に養父越後が三戸信駕御人となったことに伴い、その家督を嗣ぎ、同十一年に死去している。四代目金吾(儀政の子、慶明の養弟)は宝暦十一年に跡式。同十三年から一家を興した養父越後と共に相撲御用(行事職)を勤めて安永二年死去。五代目十次郎(のち善吾)は安永二年に跡式、相撲御用見習を勤めて安永七年隠居した。六代目造酒之助(のち越後)は安永七年に家督、相撲御用見習を勤め、寛政四年に献金の功により十二石加増せられ高五十石となった。のち同八年足高収令により元高三人扶持となった。その後、文化五年閏六月に越後と名改め、文政二年に相撲行司家となり、同三年隠居した。その跡を七代目造酒之助(文政三年家督、嘉永三年隠居)一八代目造酒之助(嘉永三年家督、のち欣之丞、同六年隠居)一九代目始定知(のち速水、瀧三)と相続。慶応元年物価高騰により安定するまで本高同様の手当米十二石を給せられ、手当米ともで三駄四人扶持(高三十石)の実収となった。明治十一年の士族明細帳によれば、定知は東中野村(盛岡市)百十六番屋敷に住居と見える。その跡を定敏一善司一好男と相続、当主政雄は山田町に在住する。歴代の墓地は、初代・三代・四代は法泉寺、二代・五代は長松院にある。





上記の外、本家二代目越後慶明を初代とする家がある。慶明の事歴は本家の条を参照。宝暦四年藩命により三戸信駕(南部利視九男)に仕え(三人扶持)、同十二年に再び本藩に仕えて三人扶持を禄し、安永二年に隠居。同三年死去した。その跡を蔵之助親明(初代儀政に実子、慶明には実は義弟、筋目の嫡子となる、のち善太郎、善作)が安永二年に相続し、側物書(一説に祐筆)を勤めたが、勤中の文化元年江戸にて自殺して断絶。「たけたからくり」は、三人扶持、百石格長瀬善作、文化元年江戸勤番中に自刃ニ付、身帯召し上げられ、嫡子善太郎儀、同姓長瀬造酒之助に養育仰せ付けらると伝えている。その後親族から家名立が赦されて同四年に造酒之助定道(先の善太郎同人ヵ、のち越後)が召出され、三人扶持を禄したが天保十年八十九歳で死去。その跡を造酒之助定儀(嘉永三年死去)一音弥(のち造酒之助、安政五年に隠居)と継いで、再び身帯家屋敷取上となった。隠居名を合水と号し、明治二十二年死去、その子に吉弥定志があった。歴代の墓地は長松院にある。  



諸士リスト(な行)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる