楢山 ならやま

楢山佐渡家 大楢山


 明治元年支配帳に着座高知・楢山佐渡家がある。『参考諸家系図』によれば、南部家二十二代政康の四男石亀紀伊守信房の二男楢山帯刀義実を祖と伝える。義実は南部晴政の治世に、二戸郡楢山村に禄若干を知行し、その在名により氏としたという。天正中津軽郡代を勤め、同十八年の九戸の陣、慶長六年の和賀岩崎の陣に忠勤の功績により二千石を知行し、慶長八年死去した。その跡を嫡子五左衛門直隆が相続。系胤譜考によれば、この時初めて南部氏を楢山氏に改めたと伝える。伝来する慶長八年知行状の宛名は南部五左衛門であることに論拠している。明治元年御支配帳に散見する、直隆の子弟・分流各家の祖は左表の通りである。


楢山帯刀義実┳直隆┳宗隆┳隆常━隆好┳隆屋   明治元年支配帳
      ┃  ┃  ┃     ┃       楢山佐渡家
      ┃  ┃  ┃     ┗隆秀   明治元年支配帳
      ┃  ┃  ┃             楢山又七郎家 
      ┃  ┃  ┗隆方         明治元年支配帳
      ┃  ┃                楢山用臧家
      ┃  ┗隆章            明治元年支配帳
      ┃                   楢山益人改め石亀益人
      ┗親実               明治元年支配帳
                          楢山蔵之進家 

義実の嗣子直隆は、慶長八年に相続。千二百五十石を知行した。家老を勤め、同十九年幕府より命ぜられた大名役・越後高田城築手伝に八戸左近直政と倶に現地に赴き、八戸氏が病に倒れ帰国の途についた後は、八戸氏に代り大奉行を勤めた。工事完成の後、その功績により将軍徳川秀忠より義助の刀を与えられた。寛永九年新藩主重直襲封の時、八戸弥六郎直栄、七戸隼人正直時と倶に随身家老三人の一人として将軍徳川家光に謁した。正保四年次男七左衛門隆章に三百石を分地の後、同年新田二百石を加増せられ、千百五十石となった。慶安二年死去した。その跡を嫡子五左衛門宗隆が相続した。寛文四年に隠居、翌五年死去した。その跡を五左衛門隆常が相続、遺地の内八百九十九石を知行した。同十二年名目千石の軍役高となり、延宝四年新田披立による改有高四百十六石を加増、千三百十五石となった。元禄十五年家老となり宝永二年死去。その跡を五太夫隆好が相続した。部屋住で御番頭を勤め、宝永二年に家督。享保十六年死去した。嫡子彦五郎隆屋は正徳五年に部屋住で父に先立ち死去。隆好の家督は隆屋の長男五左衛門隆尚が祖父の養子となり、嫡孫承祖。延享五年叔父の五七郎隆秀に百石を分地して千二百十五石となった。御番頭、広間御番頭を勤め、安永八年死去した。その跡を嫡子五郎兵衛(のち帯刀)隆虎が相続した。天明五年加判役(家老)となり、同八年領内に起きた百姓一揆に失政の引責を以て退役、寛政五年再度加判役となり同十年死去した。五弟幾之丞隆貢は諸武芸に秀で、不変流棒長刀組合居合を池田伴蔵光繁に師事し、師範となり、のち池田貢光博に継承した。人望もあって門人も多かったと伝えられている。文化六年死去した。隆虎の家督を五左衛門が寛政十年に相続した。中丸御番頭を勤め文化三年死去。その跡を嫡子逸之進(のち帯刀)隆冀が相続。大御番頭、御番頭、広間御番頭を勤めた後、文政八年に加判役となり天保四年休息。その後同八年に再び加判役となり嘉永六年休息となった。安政五年新田改出高を加増、千二百五十八石七斗九升六合となった。同年隠居、明治三年死去した。その跡を嫡子佐渡隆吉が相続した。部屋住中の嘉永五年に近習頭、次いで家老見習となり、翌六年加判役、南部弥六郎らと前藩主利済に直諌し、その忌諱に触れ罷免せられたが、領民の支持を受け、同年再び加判役に復した。この時の事であろうか、祝儀の贈り物が八畳の部屋一杯に積み重ねられたが、厚く礼を述べて返戻したいという。安政五年家督を相続、その直後に加判役を退職した。同六年新田披立分の加増せられ、高千二百六十七石三斗五升となった。文久元年三たび加判役に復職、元治二年退職、慶応三年更に四度目の加判役に復職、御勝手御用懸、御銅山懸および武者奉行など軍事関係を担当した。同四年藩主に代り京都御所の警衛勤番のため従兵二百余を以て上洛。在京中岩倉具視と面談し、薩長の唱える勤王は真の朝命にあらずと確信。帰藩後、奥羽列藩同盟を支持して盟約違反の秋田藩に進軍した。戦後、国事を誤り官軍に抗戦した罪により、明治二年刎首の刑に処せられ、家名断絶となった。領民は隆吉を慕い将軍地蔵として祀った。同二十二年に家名再興が許された時を待って、有志により旧桜山に「楢山佐渡之碑」が建てられた。その名跡は三女たねが相続、その跡をサトが継いで、当主光枝氏は盛岡市に在住する。隆吉の妹・千代は南部利済(三十八世)が南部修礼を称していた時の室。利済が大宗を相続後、烈様、御国奥方、御前様と称せられた。利義(三十九世)、利剛(四十世)の生母。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺。知行地菩提寺は宮古市花原市の華厳院にある。天保十年、千二百四十石三斗の時の采地は、百五十三石余を宮古通田鎖村に、三十一石余を同通根市村に、十六石余を同通花原市村(以上宮古市)に、六十六石余を同通蟇目村に、六十九石余を同通茂市村に、七十一石余を同通刈屋村に、三十三石余を同通腹帯村(以上新里村)に、九十七石余を同通川井村に、二十三石余を同通片巣村に、四十九石余を同通鈴久名村に、五十石余を同通田代村(以上川井村)に、五石余を同通末前村(宮古市)に、二百三十九石余を伝法寺通吉水村(紫波町)に、百八十三石余を同通飯豊村(伝法寺通に飯豊村なし。所在不明)に、九十九石余を沼宮内通松尾村(松尾村)に、四十三石余を福岡通姉帯村に、五石余を同通冬部村(以上一戸町)に知行した。

あ?い う?お か?き く?こ  し?そ  ち?と  に?の は行 ま行 や―わ行




盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる