南部 なんぶ

南部弥六郎家 大八戸 根城南部


明治元年支配帳に御三家・南部弥六郎家がある。重臣三家の筆頭。八戸南部家。根城南部、遠野南部 大八戸等と云われている。『参考諸家系図』によれば、南部家初代光行三男破切井六郎実長を祖と伝える【系譜】。実長は初め源頼朝に仕え甲斐国野上、牧橋、破切井の三郷を領し、その在名により破切井氏を称した。文永十一年法華宗の祖日蓮が甲斐身延山を草創するに当たり、帰依して一寺を建立。身延山久遠寺と号した。のち隠居。剃髪して日円と号した。その跡を嫡子彦次郎、その嫡子四郎長継、長継の外甥(妹の子)で南部次郎政行の二男又次郎師行と相続した。師行は建武元年北畠中納言顕家が陸奥国司として宮城郡多賀国府に下向の時、国代の列にあって、初めて陸奥に来て、旅館を糠部郡八戸石掛村八森に営した。名付けて根城と称した。各地で歴戦の武功を挙げ、同二年顕家が後醍醐天皇の勅命を奉じて西上する時、留って守り、延元元年津軽平賀郡の曽我貞光が足利氏に属して兵を挙げたが、討ってこれを平定した。のち顕家は再び陸奥に下り、同年再度西上する時、従って沿道の敵と戦い、同三年和泉石津浜にて敵将高師直と戦って破れ、顕家と倶に戦死した。その跡を南部次郎政行の四男で師行の実弟六郎政長が継いだ。元弘三年新田義貞に招かれ鎌倉攻めに参戦、北条高時征伐に殊功を挙げた。延元元年兄師行に従って曽我貞光を津軽に討った。その後も攻防を続け退けた。後村上天皇はこれを賞して太刀、甲胄を下賜せられた。正平十五年死去した。孫信光の譜によれば、正平五年の譲状を所持とある。隠居の後死去したのであろうか。脈絡不明である。その子蔵人信政は建武二年国司北畠顕家が西上の時、師行に代わって従い、所々の戦いに功を挙げた。興国六年達智門院右近蔵人に任ぜられた。父に先立ち死去した。建文二年死去ともいう。その子三郎信光が正平五年祖父の家督を相続、のち大炊介、次いで薩摩守を称した。永和二年に死去した。その弟弾正少弼政光は祖父信政より譲状を受けて北郡七戸に在り、兄信光と倶に南朝に属して数々の戦功を挙げた。永和二年兄の死去によりその跡を相続した。明徳四年南北両朝合体の後、一族郎党を引き連れ甲斐を退去、八戸根城に移住した。晩年根城を養弟長経に譲り、七戸に退隠した。その跡を信政の養弟で信光の長男左近将監長経が相続。その跡を信光長男修理亮光経│新田左馬介経安嫡男左近将監長安━刑部丞守清━新田刑部丞清政男八戸河内守政経と継いだ。これ迄、綸旨・御教書・書簡など皆南部とあったが、この頃より八戸殿と称せられるようになったする解説書が多い。実は取るに足らない『公国史』は政経を天文五年正月武田信虎との駿河高圓寺における戦いで戦死した破切井実春の子義長とダブらせる諸説などがあり錯綜している。その跡を継いだ但馬守信長は笛の嗜みがあり、名手の聞こえ高かったという。京都在番の時に、将軍義政の前で、又禁裏にて後土御門院の前で奏でたと伝える。その跡を薩摩守治義━五郎義継━実弟弾正少弼━新田左馬助行政長男薩摩守政義と相続した。天正十七年に家督を継いだ政義は、その臣櫛引弥六郎、東民部太夫政勝の反乱を鎮め、嫡家に対しては、一貫して世子信直を擁立する立場を鮮明にした。永禄中嫡家晴政と信直が不和により、信直が窮地にあっても庇護した。信直が九戸九郎を鉄炮で打った川守田事件に晴政の怒り強く、田子城への帰城も危惧された時、根城に匿った。津軽に大浦為信が逆意、九戸政実の野心の時、津軽出陣を果たした。天正十八年小田原参陣の時、前田利家の報により、豊臣秀吉への謁見は所領安堵の踏み絵と知らされつつも、領内不穏の折り、静謐の維持と、嫡家の存続を図り、附庸となることを決意して三戸城に留まった。秀吉はこのことを伝え知り、名代とし信直に従った嫡子弥六郎直栄に対し、朱印状は発行しないが本領安堵を約したという。文禄の役に信直は肥前名護屋に出陣したが、父子倶に領内守護の任に当たった。のち隠居して政栄と改め、閑居、慶長十五年死去した。田名部円通寺に葬られた。その跡を嫡子弥六郎(のち弾正)直栄が相続した。天正十八年小田原参陣の時、父の名代として信直に扈従、豊臣秀吉に謁した。同十九年の九戸陣には父と倶に忠勤を励み、その後家督を相続、文禄元年名護屋参陣には名代として家族新田左馬介の弟新田九郎左衛門栄連に手勢を添え従軍とした。同三年盛岡城築城の時、奉行五人衆の一人 赤旗組を分担した。同四年死去した。室は信直の女千代姫、元和元年死去した。その跡を実弟三五郎(のち左近)直政が末期養子となり順相続、のち家老となった。慶長五年最上陣の時、直政十四歳の若年により名代として家族新田左馬介政盛に手勢を添えて従陣とした。その後領内和賀に一揆蜂起により大将利直は帰陣したが、政盛は最上に残留した。一方、岩崎陣には軍列に加わり、家士に戦死戦傷者を出した。慶長十七年将軍秀忠が桜田邸に来訪の時、太刀馬を献上して謁した。この時、薩摩守の子孫かと問われたという。同十九年越後高田城築城普請手伝の時、名代として現地に赴き大奉行を勤めた。この時本多佐渡守が徳川家康の内意を伝えて、先年桜田邸で将軍秀忠が直政に問うた薩摩守の子孫かの義は、小田原参陣の節の八戸家の忠義。時を見て直参に取立ると秀吉が約束ことを家康が承知しており、秀忠に引き継がれていることを知らせたものだったという。この年病に倒れ、帰国の途次、越後椎谷崎にて死去した。七日の後、家士大光寺文助が殉死した。その跡を直政の後室清心尼が相続した。直栄の女にて、母は信直の女千代姫、信直の孫女である。直政の嫡子久松は早世して相続する者は無かったが、家名断絶は出来ない家柄として清心尼の相続であった。慶長十九年大坂冬の陣に名代として家族新田左馬介政広、中館勘兵衛政常が手勢を添えて従軍した。元和三年田名部三千石の地を嫡家に預け、一萬二千五百石となった。元和六年家族新田左馬介政広の嫡男佐渡(のち弥六郎)直義(のち直栄)を養嗣子となし家督を譲った。正保元年死去した。その跡を相続した直義は、寛永三年将軍家光の上洛に利直に供奉。同四年仙台境不穏を以て藩境警備のため遠野城を預かり、遠野城に移転した。なお、遠野通は藩の支配が一切及ばぬ、一円支配・直義の直轄地とせられた。また同八年藩主江戸在勤中の領内は直義が留守居を勤めるものとされた。同九年世子重直が襲封の時、七戸隼人正、楢山五左衛門直隆と倶に、家老三人の一人として新藩主に従って将軍家光に謁した。同十一年将軍の上洛に重直に供奉した。正保二年から嗣子三五郎義長の代の寛文五年まで中野家、北家と倶に三家で証人番を勤めた。寛文五年重信が襲封のとき、漆戸勘左衛門正茂戸倶に将軍家綱に謁した。数々の藩主名代を勤め延宝三年死去した。その跡を三五郎(のち弥六郎)義長が相続した。部屋住で承応三年証人番を勤めた。証人番は寛文五年廃止まで中野、北両家と倶に勤めた。家督の時に父の遺言があり、同三年知行所検地を実施した。打出高三千百七十九石余の内二千石を同四年弟頼母義也に分地、残り高は義長預り地の名目で支配地とされた。同年名代として江戸火の番を勤めた。貞享三年分家の家督を北九兵衛相続にあたり、遺地の内千石を本家預かり高となり、預かり高は二千百七十九石余となった。元禄元年死去した。その跡を嫡子戌千代(のち佐渡、弥六郎)義倫が相続した。この時預かり地二千百七十九石余分として、岩手郡平舘村、巻堀村、二戸郡奥友村、女鹿村、志和郡佐比内村の内二百二十石と閉伊郡下宮守村を返上した。室は重信の女慶姫。元禄二年死去した。その跡を山田大学利仲の子勘解由利戡が末期養子となり相続した。宝永二年采地の内鱒沢村が用地とし借上となり、その代替地として下宮守村、志和郡佐比内村を知行した。宝永三年大名役江戸護持院火消番を命ぜられ、総勢三百人により勤めた。正徳二年検地打出高二百十二石余を加増、一萬二千七百十二石余となった。同年死去した。その跡を南部織部舜信の長男善之助(のち若狭、弥六郎)信有が藩主利幹の命により相続した。享保三年老中上座となった。神道を学び、和文を能くした。同二十年死去した。その跡を嫡子左近(のち弾正)信彦が相続、延享二年隠居して剃髪、永帰と号した。その跡を同苗八戸内記義書の長男友弥(のち弥六郎、彦睦)義顔が養嗣子となり相続した。安永八年席詰(家老)となり、天明五年死去。初め三輪秀奏について歌を学び、のち宝暦十一年冷泉大納言宗家に師事してその道を修めた。その見聞する歌千二百首を集め「詞園」と名付けた歌集があり、序文は芝山中納言重豊、跋文は風早参議公雄、また表題は芝山中納言持豊の手書きとなっている。その跡を嫡子若狭義興が安永五年部屋住で死去したため、信彦の子で、義顔の養弟但馬怡顔が養嗣子となり天明五年相続した。文化四年席詰となり、同十四年死去。その跡を嫡子但馬(のち弥六郎)義堯が相続した。文化十四年席詰となった。文政元年嫡子嫡孫まで南部の称号を許され、南部弥六郎と改めた。文政三年世子利用が襲封の時、南部九兵衛継隆、八戸上総義涛と倶に従い将軍家斎に謁した。同八年世子利済が襲封の時には、毛馬内典膳直興、八戸上総義涛と倶に従い、この時も家斎に謁した。同十三年死去した。その跡を嫡子富五郎(のち弥六郎)義茂が相続、天保八年死去した。その跡を義堯の二男富三郎(のち弥六郎)義普(のち済賢)が兄の養嗣子となり天保九年に順相続した。同十年大老加判役兼帯となり、弘化五年加判役を解かれ、嘉永六年大老を解任、同年更に大老加判役兼帯となり、安政三年席詰となった。明治二年戊辰戦争の責を負い隠居、同十二年遠野で死去した。翌日旧臣石橋伊助が殉死した。その跡を同二年に嫡子等義敦が相続。その跡を同六年に養嗣子専次(のち行義)が相続した。同十一年の士族明細帳によれば、横田村(遠野市)二百六十九番屋敷に住居していた。明治三十年先祖師行から五代、南北朝時代南朝の忠臣として尽くした功績を以て男爵を授与せられた。その跡を義信、日実と相続、当主の光徹氏は僧籍(東郷寺住職)にあって東京都に在住する。伝来する中世文書は貴重である。知行一萬二千七百十二石三斗の采地は、千七十七石余を遠野通横田村に、百七十八石を同通羽根通村に、百七石余を同通五日市村に、七百九十石余を同通土淵村に、九十八石余を同通本宿村に、二十八石余を同通久手村に、五百十六石余を同通杤内村に、四十六石余を同通山口村に、五十七石余を同通高室村に、六十石余を同通片岸村に、七十石余を同通州崎村に、二百三石余を同通柏崎村に、八十二石余を同通飯豊村に、六十三石余を同通宮沢村に、四百二十六石余を同通糠前村に、三百三十七石余を同通中沢村に、四百四十五石余を同通青笹村に、同通板沢村に百四十九石余を、八石余を同通大寺村に、十石余を同通切懸村に、百八十五石余を同通平倉村に、三十四石余を同通平原村に、三百十九石余を同通佐比内村に、百七十二石を同通細越村に、七十五石余を同通来内村に、六百二十五石余を同通新里村に、百二十三石を同通釜石村に、三百四十五石余を同通■(みさ・身を篇に、鳥)崎村に、千四百七十七石余を同通綾織村に、六百七十三石余を同通小友村に、千二石余を同通鱒沢村に、百五十七石余を同通畑中村に、十八石余を同通小平村に、八十七石余を同通白岩村に、百四石余を同通光興寺村に、同通松崎村に四百七十三石余を、四百七十三石余を同通駒木村に、三十七石余を同通安子代村に、三百四十二石余を同通附馬牛村に、百三石余を同通妙泉寺村(以上遠野市)に、五百二十二石余を同通上宮守村(大迫町)に知行した。


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