南部 なんぶ

北家 南部伊豫家


明治元年支配帳に御三家・南部伊豫家がある。『参考諸家系図』によれば、北尾張信愛の三男北九兵衛直継を祖と伝える。直継は天正十九年に別に九戸郡小軽米村(軽米町)及びその傍村に二千石を知行、慶長六年和賀岩崎陣には殿軍を勤めた。家老を勤め、同十八年信直股肱の臣であった父信愛が死去の時、三男ではあったが、主命により、その祭祀を勤める家とされた。同十九年大坂冬の陣に従い、寛永七年死去した。その跡を嫡子主馬宣継が相続。時に十一歳。同十一年将軍の上洛に供奉。寛永十六年に幕府に証人番制度が設けられ時に、八戸家、中野家と倶に輪番の勤めとなる。『書留』によれば、寛永十七年北主馬、同二十年北彦太夫、正保三年北九兵衛宣継、(以下九兵衛)、慶安二年、承応二年、明暦二年、万治二年、寛文二年と、寛文五年の制度廃止までに八度の勤番と知られる。この間に新田百五十石加増、高二千百五十石となった。寛文五年南部直房に八戸二万石が分封となり、小軽米村の地を上地。鹿角郡太湯村、風張村、宮野平村、腰廻村(以上秋田県鹿角市)など十二ヶ村に知行替せられた。これより太湯舘を居舘とした。延宝六年加判役(家老)となり、元禄七年死去した。その跡を嫡子豊之助(のち九兵衛)可継が相続。世子行信の傅役となり、大学を進講したと伝える好学の士であった。同十二年加判役となった。七戸外記愛信、北川新左衛門宗俊等と国政の改革にあたったが藩主行信の忌諱に触れ、同十六年隠居蟄居となった。元禄の儒者論という。正徳三年に嗣子澄之助恭継が死去したため、再度当住となり、同四年加判役に復職した。享保四年再び儒者論により隠居、同十七年に死去した。元禄十二年から享保十七年までの「可継日記」がある。その跡を初度の相続は、嫡子和泉恭継が元禄十六年に相続、正徳三年死去。二度目の隠居時には東虎七郎政寿の二男倫弥(のち民部、監物、九兵衛、左衛門)節継を養嗣子として相続させた。節継は享保四年に相続した後、宝暦二年に席詰(加判なし・家老)となる。この年新田改高加増、高二千二百七十石。同四年加判役(家老)となり安永八年死去した。嫡子九兵衛継担が明和五年に部屋住で死去。節継の家督は継担の子左衛門継武(のち継達)が祖父の養子となり、安永八年に嫡孫承祖した。初め部屋住で安永五年に家老見習、同六年席詰(加判役家老)となり、同八年に家督。天明五年死去した。その跡を実弟林之助(のち左衛門、監物、九兵衛)継隆が末期養子となり順相続した。同年席詰、同六年席詰休息となった。文政元年南部氏に復して、南部九兵衛と称した。この時、嫡子嫡孫まで南部姓を許され、次三男は旧の通り北姓を称した。同三年席詰に復職、同四年三百五十石加増、高二千六百二十石となる。同六年死去。その跡を嫡子監物継熈が相続。同年席詰となり翌七年死去。その跡を八戸上総の二男金作継処が末期養子となり相続したものの同年死去。その跡を八戸弥六郎の叔父右近継昌が末期養子となり相続した。同七年に席詰となり、天保四年に休息、同七年再度席詰に復職。同十一年死去した。その跡を新渡戸図書の弟土佐継序(のち済民)が末期養子となり相続。天保十一年に大老となる。嘉永六年藩主利済に直諌し、忌諱に触れて隠居蟄居となった。文久元年蟄居を解かれて逼塞、同二年逼塞を解かれ、同三年死去した。その跡を嫡子壱岐(のち監物、伊予)済揖が相続。安政二年新田披立の改有高加増により、高二千七百六十三石三斗一升となる。万延元年加判役となり、明治元年戊辰戦争降伏の後、退役謹慎、翌二年身帯取上、隠居蟄居となった。のち赦され同三十七年死去。その跡を同二年に嫡子岩太郎斉大が、北氏を以て新規に召出され、同十一年の士族明細帳によれば、関口村(石鳥谷町)五十一番屋敷に住居と見える。その子済謙の時、南部姓に復して南部済謙と称す。その跡を康助、ヤス、富哉、ヨシと相続、当主の初巳氏は盛岡市に在住(先年死去)する。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺にある。天保十年書上によるに高二千五百四十八石余の采地は、十四石余を毛馬内通冠田村に、四石余を同通根市村に、十六石余を同通一本木村に、二百五十八石余を同通太湯村に、五石余を同通箒畑村に、四十石余を同通浜田村に、三十四石余を同通腰廻村に、十四石余を同通蟹沢村に、十石余を同通倉沢村に、三十八石余を同通宮野平村に、四十五石余を同通風張村に、百三十四石余を同通古川村に、百七十九石余を同通関上村(以上秋田県鹿角市)に、三百四十七石余を八幡通関口村に、百五十七石余を同通瀧田村(石鳥谷町)に、百九十石余を同通猪鼻村に、五百四十四石余を同通八重畑村に、五十七石余を同通戸塚村に、二百石余を同通黒沼村(以上石鳥谷町)に、二百石余を大迫通宮森村(宮守村)に

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