盛岡城 石垣矢蔵 青森県史資料編 中世1 p304 南部家旧蔵文書 283 p142

盛岡城 石垣矢蔵 青森県史資料編 中世1 p304  南部家旧蔵文書 562

 「利直様より毛馬内三左衛門へ之御書 壱通」
尚々おうへにもあんとん(行燈)、下居に斗有明、大台所にも大あんとん、是は魚油とほさせへく候、よきあぶらは無用に候、薪むさと馬や方々へ越ましき由刑部左衛門に可申候、以上
又申候、(下落)

石垣矢蔵之内面いつ比仕舞候哉、終に左様之注進もなく候や、三左衛門ぬかり候、京間五間四方にて候、左様にならしにてや、西之すみ(隅)より北へさくの方へ我等なわをはり、四尺あまり土手よりたかくて有候、何ほどに候哉や、此たかさをも、けんつ(現図ヵ)通にて打候て、高サすみ石之数可申越候、さくの方へつき留餘につきかけ候者、北へ今度つき候時、石かき(垣)可崩候間、少さくの方をがんき(雁木)にのらせ候てつき留へく候、石垣出来候者、北の土手之方くり石より壱間あつくいかにものらせ、あらを土手にたたき付、がんきなしに人のあかり候様に可仕候、我等帰候者、段々に松を可植候、木を植候様に如何\/可仕候、石垣出来候者、仁右衛門に為見候て、手きわを能可仕候、(下略)

一、矢蔵の内根石之きわ、水のたまり候様にすこしたかく土を可置候、根石之きわに水たまり候へは、根石之下やはらかに成候ておしこみ候、大事之事に候

一、此方に知行之有者共、爰元之普請させ候へと、昨日彦八郎申越候間、かつ手よく候間、急参候へと可申候、おそく候てはさん\/事に候、其元に残る人数何ほと候や、百人組へり候、かき立、惣つかういそき可申こす候、石かき出来候て、土手のたたき付出来候て、其後は仕事有まじく候間、先度掃部助なとに申置候、雨にて貫候土手共なをさせへく候、(下略)

註 爰元之普請は何処か

一、石垣の内めん之土手仁右衛門に見せ候へと申候へとも、中里よく仕候間、中里たしかにさせべく候、土を持候事は惣之人数にてもたせへく候、とかく黒土取候所は足澤屋敷之うらに多候、あれを屋敷のなみにかきのきわまてろくに切とらせへく候、又掃部助うらにも台所之方に可有候、(下略)
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(慶長八年ヵ)
八月廿日               利直 黒印
毛馬内三右衛門           辰ノ刻









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