日戸 ひのと

日戸五兵衛家 200630

明治元年支配帳に新丸番頭家格の日戸五兵衛家がある。『参考諸家系図』によれば河村四郎秀清の後胤日戸内膳秀恒を祖と伝える。秀清は、文治五年源頼朝の奥州藤原氏征伐時の軍功で東岩手郡三分の一、東紫波郡数郷の地頭職に補されたという。その一族は繁衍し、大萱生氏などが同族である。秀恒は代々岩手郡日戸村(盛岡市)ほか傍村を知行し、日戸館に居住、在名により氏とした。天正十六年紫波郡征伐の軍功で千三百六十石を知行、慶長十三年高千六百石となった。この時野辺地城代として野辺地(青森県)に移住、津軽の押さえを果たした。『奥南落穂集』によれば寛永元年死去。その子内膳秀武は父を継いで野辺地城代となり、千三百石二斗八升四合を知行、同八年野辺地で死去、同地常光寺に葬られた。秀武の子弟並びに孫については諸説あり、『系胤譜考』は秀武嗣子内膳直秀、長孫で直秀の長男を助三郎秀盛、二孫を正兵衛秀親、三孫を助太夫とする。一方、『奥南落穂集』『参考諸家系図』は、秀武には四男があるとし、長男内膳直秀、次男は南部氏諸士由緒(慶安二年書上)によれば、親戚であるようだが、『系胤譜考』は他系としている仁兵衛秀春、三男は『系胤譜考』が二孫と伝える正兵衛秀親、四男は『系胤譜考』が家分とする三十郎秀和となっている。内膳直秀の跡を嫡子助三郎秀盛が相続。家老となり、承応三年江戸より帰国の道中、伊達郡(福島県)貝田駅で死去、同地貝禅寺に葬られた。その跡は五兵衛秀明(遺領千六百石のうち三百石を日戸村に知行、元禄十年没)━五兵衛秀豊(用人花巻郡代兼帯、享保八年現米五十石加増で高三百五十石、関流算学を村松在保に学び、著書に東北大学架蔵の『発微演段式』がある、享保十六年没)━右内秀融(新丸番頭、元文元年没)━五郎左衛門秀浄(のち清右衛門、末期養子、花巻郡代表用人兼帯など、明和七年没)━右内秀倚(のち五兵衛・左近・左右、用人側兼帯など、寛政二年歿)━友治秀敷(のち右内、文政十年歿)━虎之助秀秋(のち五兵衛・五八郎)と相続。明治八年に孫秀持が祖父の養子となり、嫡孫承祖した。同十一年の士族明細帳によれば、盛岡の下小路五十三番屋敷に居住。歴代の墓地は盛岡市の報恩寺にある。

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